本文へスキップ

巻第12(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第12-3204~3207

訓読

3204
玉葛(たまかづら)幸(さき)くいまさね山菅(やますげ)の思ひ乱れて恋ひつつ待たむ
3205
後(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは田子(たご)の浦の海人(あま)ならましを玉藻(たまも)刈る刈る
3206
筑紫道(つくしぢ)の荒礒(ありそ)の玉藻(たまも)刈るとかも君は久しく待てど来(き)まさぬ
3207
あらたまの年の緒(を)長く照る月の飽(あ)かざる君や明日(あす)別れなむ

意味

〈3204〉
 葛の蔓が長く伸びるようにご無事でいらして下さい。私は山菅の根のように、思い乱れ恋い焦がれながらあなたをお待ちします。
〈3205〉
 取り残されてあの人を恋い続けているくらいなら、いっそ田子の浦の海人であったらよかった。今ごろ、玉藻を刈りながら。
〈3206〉
 筑紫道の荒磯の玉藻を刈りとっていらっしゃるのか、あの人は久しくお待ちしているのに、一向に帰って来られない。
〈3207〉
 年久しく照る月のように、見飽きることのないあなたと、明日はお別れしなければならないのでしょうか。

鑑賞

 作者未詳の「別れを悲しむ」歌4首。3204の「玉葛」の「玉」は美称、「葛」はかづら(髪飾り)にするつる草の総称。枕詞ですが、花が咲く意で「幸(さき)く」にかかるとする説、つるが長く延びる意で「幸くいまさね」に、あるいは「幸く行かさね」と訓んで「行く」にかかるとする説など様々です。「いまさね」の「います」は「行く」の尊敬語、「ね」は希求の終助詞。「山菅の」は、その葉が四方八方に乱れて生える様子から「乱れ」にかかる枕詞。窪田空穂は、「前半は夫の旅行きを斎(いわ)ったもの。後半は、留守中の貞実を誓う心で、それぞれ枕詞を添えて美しくいっている」と述べています。

 
3205の「後れ居て」は、後に残って。「恋ひつつあらずは」は、恋い続けているくらいなら。「田子の浦」は、静岡県の駿河湾西岸。「海人ならましを」は、漁師であったならよかったのに。「まし」は反実仮想の助動詞で、「を」は逆接の意を込めた詠嘆の助詞。「玉藻刈る刈る」は、「刈る」を繰り返すことで、休む間もなく作業に没頭する様子を描いていて、労働に没頭することで、恋の苦しみから逃れたいという心理が隠されています。窪田空穂は、「田子の浦に近く住む、ある程度の身分ある妻が、心なげな海人を羨んだ心である」と述べています。

 
3206の「筑紫道」は、大和から筑紫への往還の道。「荒磯の玉藻刈るとかも」の「かも」は疑問で、荒磯で藻を刈るのに夢中になっているからだろうか。一種のあてつけや皮肉が含まれた表現であり、ここでは、港に逗留して遊女と遊ぶことを譬えているとも言います。「待てど来まさぬ」の原文「待不来」で、マツニキマサヌと訓むものもあります。「来まさぬ」は「来ぬ」の敬語。官人である夫の筑紫からの帰着を京で待ちかねている妻の歌とされますが、あるいはまったく違う観点から、次のように解することもできます。すなわち、筑紫は当時の人にとって、一度行けばいつ戻れるか分からない、非常に遠く危険な場所です。その物理的な遠さを知り抜いているからこそ、あえて「藻を刈っているのか」と身近な理由を口にすることで、現実の不安(病気、事故、心変わり)を打ち消そうとしているようにも読み取れるのです。

 
3207の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年の緒長く」の「緒」は紐のことで、紐の長いように年久しく、という意。上3句は、長い年月照っている月であっても見飽きることがないところから「飽かざる」を導く譬喩式序詞。「君や」の「や」は、詠嘆の意を含む疑問の助詞。「明日別れなむ」の「なむ」は、強い確信を伴う推量、あるいは意志を含んだ表現。「明日には別れてしまうのだなあ」という、抗いようのない運命に対する深い溜息のような余韻を残します。夫が遠く旅立つ前夜に妻が贈った歌とされます。



あら(荒・現・新)

 アラは多く「荒」の文字で表記される。その「荒」は、通常、接頭辞的な語素として他の名詞と複合する。「荒野」「荒海」「荒磯」などがその例になる。「荒野」のアラには、荒涼とした、荒れ果てた野の印象がうかがえるが、「荒海」「荒磯」などのアラには、むしろ勢いの激しさが感じられる。古橋信孝は、このようなアラを「本来は始原的な、霊力が強く発動している状態をあらわす言葉」であるとする。「荒野」は、開墾されていない野だが、そこはむしろ「霊威が強くて近づいてはいけない野」であり、それゆえ、人間から見れば荒涼とした、荒れ地として捉えられることになる。「荒磯」についても、岩に勢い激しく打ち寄せる白波が、海の神の霊威を強く現すような場であるとする。 

~『万葉語誌』から抜粋引用

【PR】

窪田空穂と『万葉集』

 歌人であり国文学者でもあった窪田空穂(くぼたうつぼ:1877〜1967年)にとって、『万葉集』の研究は生涯をかけた一大事業であり、彼の短歌論の精神的支柱でした。賀茂真淵をはじめとする江戸期の国学者が「古道」や「精神の復古」を重視したのに対し、空穂の万葉研究は「一人の歌人としての共感」と「近代的・人間心理的なアプローチ」に大きな特徴があります。

  1. 記念碑的業績『万葉集評釈』
     空穂の万葉研究の集大成が、全12巻(索引含め13冊)に及ぶ巨著『万葉集評釈』です(当サイトでもっとも多く引用している文献です)。それまでの万葉集の注釈書(仙覚の『万葉集抄』、真淵の『万葉考』、鹿持雅澄の『万葉集古義』など)の成果を踏まえつつも、空穂は独自の視点を貫きました。単なる言葉の歴史的解釈(語釈)にとどまらず、「その歌が詠まれた時、作者の心はどう動いていたのか」という作者の心理や感情のダイナミズムを、緻密かつ平易な現代語で解き明かしたのです。歌人としての鋭い感性をもって一首一首の「調べ」や「息遣い」を追体験するようなその評釈は、今なお万葉集研究・鑑賞の最高峰の一つとして高く評価されています。
  2. 『万葉集』に見た「人間性の真実」
     空穂は『万葉集』の魅力を、技巧の洗練ではなく「むき出しの人間性」に見出しました。空穂は、後世の和歌(古金・新古今など)が「理知」や「ことばの遊芸」に傾斜していったのに対し、万葉の歌は「情感」そのものが結晶化したものであると捉えました。天皇や貴族の歌だけでなく、防人や東国の庶民が詠んだ歌(東歌・防人歌)に、人間の生々しい生活の哀歓や、飾らない愛情がそのまま表現されていることに深く共感しました。彼は「歌とは、生活のなかで心が動かされたときに自然と湧き出るもの(生活詠)」という信念を持っており、その理想の姿を万葉の歌人たちに重ね合わせていたのです。
  3. 実作への反映~独自の「写実」と「生活」
     空穂は、正岡子規や斎藤茂吉らの「アララギ」とは異なる独自の写実主義(『国民文学』を主宰)を歩みましたが、その根底にはやはり万葉精神が流れていました。アララギ派が「万葉集の言葉や調べ(写生)」を直接的に模倣する傾向があったのに対し、空穂は万葉の「精神(人間や自然に対する、直截で嘘のない眼差し)」を現代の日常に活かそうとしました。彼の代表歌である、若くして先立たれた妻を悼む一連の「愛子(かなしご)のうた」などに見られる深い人間愛と哀傷は、万葉の相聞歌や挽歌(特に山部赤人や山上憶良、あるいは大伴家持らが見せた、他者や家族への深い慈しみ)に通じるものがあります。
     空穂の評釈を読めば、1200年以上前の万葉人が、現代の私たちと全く変わらないことで悩み、恋し、涙していたことが鮮やかに伝わってきます。彼は、難解な『万葉集』を「学問の書」から「血の通った人間の告白録」へと開き直した、最大の功労者と言えます。
古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。