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巻第13(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第13-3223・3224

訓読

3223
かむとけの 日(ひ)香(かを)る空の 九月(ながつき)の しぐれの降れば 雁(かり)がねも いまだ来(き)鳴かね 神(かむ)なびの 清き御田屋(みたや)の 垣(かき)つ田の 池の堤(つつみ)の 百(もも)足らず 五十槻(いつき)が枝に 瑞枝(みづえ)さす 秋の黄葉(もみちば) 巻き持てる 小鈴(こすず)もゆらに 手弱女(たわやめ)に 我(わ)れはあれども 引き攀(よ)ぢて 峯(みね)もとををに ふさ手折(たを)り 我(わ)は持ちて行く 君がかざしに
3224
ひとりのみ見れば恋しみ神(かむ)なびの山の黄葉(もみちば)手折り来(き)つ君

意味

〈3223〉
 雷が光って曇りわたる空が続く九月のしぐれが降り出せば、まだ雁がやって来て鳴かないのに、神の鎮座する清らかな御田屋の垣の内の田の池の堤に生えている神々しい槻(けやき)の木には、勢いよく伸びた枝いっぱいに秋のもみじが輝いている。その色鮮やかなもみじを、手に巻いている小鈴もゆらゆら鳴り響くほどに、か弱い女の私ではあるけれど、枝をつかんでたぐり寄せ、槻の木のてっぺんがたわむほどにたくさん折り取って持って行きます。わが君の髪の飾りにするために。
〈3224〉
 私一人だけで眺めているとあなたが恋しくなったので、神聖な山の黄葉を折り取って持ってきました、あなた。

鑑賞

 神なび山の秋のもみじをほめる作者未詳の長歌と反歌。3223の「かむとけの」は、雷の落ちる意で、その光ることから「日」にかかる枕詞。「日香る空の」の原文「日香天之」は「日杳天之」の誤りだとして、日杳(ヒクラシ)の意からクモレルソラノと訓むものもあります。「雁がね」は、ここは雁そのもの。「神なびの」は、神の鎮座する。「御田屋」は、神の田を守るための小屋。「垣つ田」は、垣の内にある田。「百足らず」は、百には足りない意で「五十」にかかる枕詞。「五十槻」の「槻」はケヤキの古名で、イツキ(斎槻)は神に属するものとして尊んでの称。堤の地盤を強化するために植えたもの。「瑞枝さす」は、若い枝を出している。「巻き持てる」は、手に巻いて持っている。「小鈴もゆらに」の「小鈴」は、腕輪となっている釧(くしろ)に付けたものか。「ゆらに」は、鈴のなる音の形容。「手弱女」は、か弱い女。「引き攀ぢて」は、引き寄せて。「とををに」は、たわわに。「ふさ」は、たくさん。

 この歌について
窪田空穂は、次のように評しています。「歌材から見て、飛鳥時代の歌と思われる。作意は、贈物に添える歌の、型となっている内容を出ないものではあるが、しかし詠み方はじつに大がかりで、当事者の間の儀礼のものではなく、第三者を予想して、客観的に描写したものであり、部分的にも、刺激的な誇張の多いものである。これは贈物に添える、実用を旨とする歌を、意識的に文芸作品としたもので、また文芸作品としても魅力的なものである」。

 
3224の「恋しみ」は「恋し」のミ語法で、恋しいので。「神なびの山の黄葉」は、神の鎮座する山の黄葉。「手折り来つ」の原文「手折来」で、タヲリケリ、タヲリキヌと訓むものもあります。長歌と反歌には時間的なずれがあり、長歌は黄葉を君の所へ持って行きつつある時点での作であるのに対し、反歌は君の所に来て歌いかける作になっています。これは巻第13全体について指摘されていることですが、反歌を後から組み合わせたものと見られています。
 


たわやめ(手弱女)

 タワヤメとは、「手弱女」の文字表記によっても理解されるように、一般には非力でか弱い女の意に受け取られている。だが、原義はそれとはやや異なる。タワヤメのタワはタワム(撓む)と同根で、外部からの力を受けてしなやかに曲がる意を示す。タワヤメは、もともとは賛め言葉で、理想の女の姿を意味した。それゆえこの言葉は、まずは神女や巫女の形容として用いられた。神女や巫女は神の対になるから、理想の女とされた。

 タワヤメは、『万葉集』の中では、次第にか弱い女の意で使用されるようになっていく。そのようなタワヤメは、しばしば男の勇武さを示すマスラヲの対語として捉えられている。「手弱女」の表記もそれとともに生じたのだろう。

~『万葉語誌』から抜粋引用

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