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巻第13(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第13-3230~3233

訓読

3230
幣巾(みてぐら)を 奈良より出でて 水蓼(みつたで)の 穂積(ほづ)に至り 鳥網(となみ)張る 坂手(さかて)を過ぎ 石走(いはばし)る 神奈備山(かむなびやま)に 朝宮(あさみや)に 仕へ奉(まつ)りて 吉野へと 入ります見れば 古(いにしへ)思ほゆ
3231
月も日も変はらひぬとも久(ひさ)に経(ふ)る三諸(みもろ)の山の離宮所(とつみやところ)
 
3232
斧(をの)取りて 丹生(にふ)の檜山(ひやま)の 木(き)伐(こ)り来て 筏(いかだ)に作り ま楫(かぢ)貫(ぬ)き 磯(いそ)漕(こ)ぎ廻(み)つつ 島伝(しまづた)ひ 見れども飽かず み吉野の 滝もとどろに 落つる白波(しらなみ)
3233
み吉野の滝もとどろに落つる白波(しらなみ)留(と)まりにし妹(いも)に見せまく欲しき白波

意味

〈3230〉
 幣巾(ぬさ)を並べる奈良の都を出発し、水蓼の穂の出る穂積の地に至り、鳥を捕らえる網を張る坂手を過ぎ、川が石走り流れる神奈備山で、朝宮に仕えまつり、吉野へとお入りになるのを見ると、過ぎ去った昔がしのばれる。
〈3231〉
 月日は移り変わっても、幾久しく変わることのない、三諸の山の離宮の地よ。

〈3232〉
 斧を手に取って、丹生の檜山の木を伐ってきて筏に作り、両側に櫂を取り付け、磯を巡りながら、島伝いに見ると、見ても見ても見飽きることがない、ここ吉野の激流をごうごうと流れ落ちる白波は。
〈3233〉
 吉野の、激流もとどろくばかりにごうごうと流れ落ちる白波。都に留まっている愛しい人に見せてやりたい、この白波。

鑑賞

 3230・3231は、吉野の離宮への行幸に供奉した官人の歌。作者は未詳。3230の「幣巾を」は、神前に幣帛を並べる意で「奈良」にかかる枕詞。「水蓼の」は、水辺に自生する川蓼が穂を出す意で、「穂積」にかかる枕詞。「穂積」は、天理市前栽町付近。同市新泉町、奈良市東九条町などとする説もあります。「鳥網張る」は、鳥網を張るのに鳥の捕れやすい坂を選ぶことから「坂手」にかかる枕詞。「坂手」は、奈良県田原本町阪手付近。平城京からの行程が、これら枕詞を冠した地名を並べる道行きの様式で表現されています。「石走る」はここでは「神奈備山」の枕詞となっており、付近を流れる明日香川が意識されています。「神奈備山」は、神が天から降りてくる山。ここでは「雷丘」とされます。「朝宮に仕へ奉りて」は、朝の宮殿に奉仕して。「古思ほゆ」の「古」は、天武・持統朝を指すと見られています。さらに限定する考えもあり、殊更に「朝宮に仕へ奉りて吉野へと入ります」と言っているのは、他の地から明日香へ来て一泊した翌朝を意味し、それは天武天皇の大海人皇子時代の吉野入りを想起したものではないかといいます。

 
3231の「月も日も変はらひぬとも久に経る」の原文「月日攝友久流経」または「月日攝友久経流」で、ツキヒハカハラヒヌトモ、ツキヒハユケドヒサニナガラフルなどと訓むものもあります。「三諸の山」は、「神奈備山」と同じく神が降臨して宿る山。

 3232・3233は、前の歌と同じく、吉野行幸に供奉した人の作とみられますが、同時の作ではありません。
3232の「丹生の檜山」の「丹生」は吉野川の上流一帯、「檜山」はその周辺の山ながら、正確な所在は不明。「ま楫」の「ま」は接頭語。「貫き」は、取り付け。「磯」は、岩続きの河岸、「島伝ひ」は、河岸を伝って。いずれも海と同様な呼び方を用いた表現。「み吉野」の「み」は、接頭語。広く普通名詞に用いられますが、地名では、越・熊野・吉野に限られています。「滝」は、漢語として急流、激流を表し、タギルと同根の語。現在の滝に相当する語は「垂水」。「とどろに」は、轟いて。

 
3233は、長歌の末の3句を繰り返して展開したもので、旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)になっています。反歌が旋頭歌であるのは集中ここだけであり、他はすべて短歌形式です。
 


行幸について

 万葉の時代に行われた行幸のうち、天平15年(743年)に聖武天皇が恭仁宮から紫香楽宮に行幸した際に、五位以上が28名、六位以下が2370名随行(当時の用語では「陪従」と呼ぶ)したと『続日本紀』天平15年4月辛卯条に記されています。また、奈良~平安時代にかけての他の行幸でも、1000名以上の随行が確認できるものが複数確認できるため、天皇の行幸となると、2000名ほどの陪従者が発生したのではないかと考えられています。

 行幸に際しては、律令官人たちは、天皇に随従する「陪従」と、宮都を守護する「留守」を務めるものとされ、特に前者は功労として位階の授与が与えられる場合があったといいます。また、公式令には中国の例に倣って天皇の行幸時には皇太子が監国を務めて留守を守ることを前提とした条文がありますが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している場合がほとんどで、皇親や議政官が「留守官」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていたようです。また『延喜式』太政官式には、天皇が出発する数十日前からの行幸の準備について細かく規定が定められています。
 

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