| 訓読 |
3253
葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国は 神(かむ)ながら 言挙(ことあ)げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我(わ)がする 言幸(ことさき)く ま幸(さき)くいませと つつみなく 幸(さき)くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす我(わ)れは
3254
磯城島(しきしま)の大和の国は言霊(ことだま)の助くる国ぞま幸(さき)くありこそ
| 意味 |
〈3253〉
この葦原の瑞穂の国は、その神の性格として、人はいちいち言葉に出すことなど必要としない国です。けれども私はあえて申し上げます。言葉に出して、どうかご無事でと。何事もなくご無事で行って来られるのなら、荒磯に寄せ続ける波のように、変わらぬ姿でお逢いしとうございます。百重に寄せる波、千重に寄せる波のように、幾度もご無事であれと言葉に出して申し上げます、私は。
〈3254〉
大和の国は、言霊が助けてくれる国なのです。だからあえて言葉に出すのです。どうかご無事で行って来てください。
| 鑑賞 |
『柿本人麻呂歌集』にある「遣唐使を見送る歌」で、人麻呂の作ではないかとされます。この時の遣唐大使は粟田真人、少録は山上憶良。3253の「葦原の」は「瑞穂の国」の枕詞。「葦原の瑞穂の国」は、日本の国のことで、葦原の中にあるみずみずしい稲の実っている国という意味があります。「神ながら」は、神の性格として。「言挙げ」は、言葉に出して事々しく言うこと。「言幸く」は、言葉の霊力が発揮されて幸せに、の意の呪的表現。「ま幸く」の「ま」は、接頭語。「いませ」は「いよ」の尊敬語。「つつみなく」は、障りなく、障害なく。「いまさば」は「あらば」の尊敬語。「荒磯波」は、同音で「あり」にかかる枕詞。「ありても見むと」は、変らぬ姿でお逢いしたいと。「百重波千重波にしき」は、百重に寄せる波、千重に寄せる波のように幾度も。
3254の「磯城島の」は「大和(ここは日本国の意)」の枕詞。「言霊」は、古代に言葉に宿ると信じられた霊力のことで、 発せられた言葉の内容どおりの状態を実現する力があると信じられていました。「こそ」は「てほしい」の意で、相手への希望を表す終助詞。この「言霊」という言葉は、『万葉集』には3度だけ出てきます。ここでは、日本の国というのは本来は「言挙げせぬ国」であるといい、実際に口に出して言ったりお祈りなどしない国だといっています。言語をはなはだしく重んじ、軽々しく口に出して祈ることなどしない、けれども、あなたの前途の幸いを祈って、あえて私は口にするのです、と言っています。

こと(言・事)
言葉を意味する「言(こと)」と事柄を意味する「事」とは、元来相通じる概念であった。モノが言葉による認識以前に存在するのに対して、コト(事)は言葉による認識作用・形象作用によってこそ形を与えられるためである。
『万葉集』の相聞歌にしばしば歌われる「人言(ひとごと:周囲の噂)」の多くが、原文に「人事」と記されているのも、「言」と「事」とが相通じる概念であったことを示しており、現代において「さっき話したこと、絶対内緒だよ」などと言った場合の「こと」が言葉であるのか事柄であるのか不明瞭である点にも、それは引き継がれている。
「言」と「事」とが相通じるところに生じてくる信仰に「言挙げ」がある。「言挙げ」とは、日常の言葉とは異なる様式によって、祈りをこめて言葉を発することであり、「言挙げ」の力によって「言」として発された内容が「事」として実現するという信仰である。その言葉に「言霊(ことだま)」が宿っているからだと考えられていた。ただし、言語呪術である「言挙げ」はむやみに行うものではなかった。「言挙げ」はよほどの危機を乗り越えるために行われるものであったようである。
一方で『万葉集』には、「言」が「事」でなかったことを言う「言にしありけり(ただの言葉だったのだ)」という表現もしばしば用いられている。一見矛盾のようにも見えるが、両者は硬貨の裏表に過ぎない。一方に「言」が必ずしも「事」ではない意識が芽生えることによって、逆に「言」には言霊が宿り、「事」によって実現するという信仰が強く意識されるようになったのである。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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遣唐使について
7世紀から9世紀にかけて日本から唐に派遣された公式の使節。舒明天皇2年(630年)8月に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を派遣したのが最初で、寛平6年(894年)に菅原道真(すがわらのみちざね)の建議によって停止されるまで、約20回の任命があり、うち16回が渡海しています。
通常4隻の船から構成されたことから「四(よ)つの船」と呼ばれ、1隻あたりの構成員は120~160人だったとみられています。当初は朝鮮半島沿いの北路がとられましたが、新羅との関係が悪化してからは東シナ海を横断する南路をとるようになり、途中で難破することが多くなりました。
遣唐使の目的は、唐の先進的な技術、政治制度や文化、ならびに仏教の経典等の収集にありました。吉備真備・僧玄昉などの留学生・留学僧が唐の文化を日本に持ち帰り、天平文化を開花させました。また754年には唐から高僧鑑真が日本に渡り、唐招提寺を建て日本の仏教に大きな役割を果たしました。遣唐使を通じての日本と唐の関係は非常に密接であったといえます。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |