| 訓読 |
3258
あらたまの 年は来(き)去りて 玉梓(たまづさ)の 使ひの来(こ)ねば 霞(かすみ)立つ 長き春日(はるひ)を 天地(あめつち)に 思ひ足(た)らはし たらちねの 母が飼(か)ふ蚕(こ)の 繭隠(まよごも)り 息づき渡り 我(あ)が恋ふる 心のうちを 人に言ふ ものにしあらねば 松が根の 待つこと遠み 天伝(あまづた)ふ 日の暮れぬれば 白栲(しろたへ)の 我(わ)が衣手(ころもで)も 通りて濡(ぬ)れぬ
3259
かくのみし相(あひ)思はずあらば天雲(あまくも)の外(よそ)にぞ君はあるべくありける
3260
小治田(をはりだ)の 年魚道(あゆぢ)の水を 間(ま)なくそ 人は汲(く)むといふ 時(とき)じくそ 人は飲むといふ 汲む人の 間(ま)なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子(わぎもこ)に 我(あ)が恋ふらくは 止(や)む時もなし
3261
思ひ遣(や)るすべのたづきも今はなし君に逢はずて年の経(へ)ゆけば
3262
瑞垣(みづがき)の久しき時ゆ恋すれば我(わ)が帯(おび)緩(ゆる)ふ朝宵(あさよひ)ごとに
| 意味 |
〈3258〉
新しい年がやってきたというのに、あなたの使いはやってこないので、長い春の一日、天地にわが思いを満たして、母が飼う蚕(かいこ)が繭(まゆ)に籠るように、ふさぎこんでは、ため息ばかりついている。私が恋い焦がれる心の内は、人に言うべきものではないので、ひそかにお待ちするより仕方がないけれど、いくら待っても逢うめどもないまま、やがて日が暮れてきて、衣の袖も涙で濡れ通ってしまった。
〈3259〉
こんなにも思って下さらないのなら、あなたは、はじめから天雲の彼方の人であればよかったのに。
〈3260〉
小治田の年魚道の湧き水を、絶え間なく人は汲むという。時となく人は飲むという。汲む人が絶え間ないように、飲む人が休みないように、愛しいあの子への恋は止むときがない。
〈3261〉
胸の思いを晴らす手段の手がかりさえも今はない。あの方に逢わないまま年が過ぎてゆくので。
〈3262〉
ずっと以前から恋い焦がれているので、次第に痩せて、私の帯はゆるくなっていく。朝夕ごとに。
| 鑑賞 |
作者未詳の長歌・短歌2組。3258・3259は、関係を結んでいた男から疎遠にされている女の嘆きをうたった歌。3258の「あらたまの」「玉梓の」「霞立つ」は、それぞれ「年」「使ひ」「春」の枕詞。「思ひ足らはし」は、思いを充満させて。「たらちねの」は「母」の枕詞。「たらちねの~繭隠り」は、繭隠りした蚕を息苦しいと見て「息づき渡り」を導く序詞。「繭隠り」は、家に籠っていることの譬喩。「息づき渡り」は、ため息をつき続けて。「松が根の」「天伝ふ」「白栲の」は、それぞれ「待つ」「日」「衣」の枕詞。「通りて濡れぬ」は、涙が染み通って濡れた。
3259の「かくのみし」の「のみ・し」は、強意の助詞。こんなにも。「天雲の」は「外」の比喩的枕詞。枕詞と見ない説もあります。「外」は、遠く、無関係に。「あるべくありける」は、いるべきだった。長歌ではひたすら待ち続けると言っているのに、反歌では大きく発展して、むしろ関係を持つべきでなかったと言っています。窪田空穂は、「反歌の役を十分に果たしているものである」と言っています。
3260の「小治田」は「小墾田」とも書き、明日香村飛鳥の近くの地。推古天皇の宮を小治田宮・小墾田宮と言います。「年魚道」は、年魚への道。「年魚」は、明日香村の東の八釣、山田付近か。「間なく」は、絶え間なく、ひっきりなしに。「時じきがごと」の「時じく」は、時の区別なく、常に。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。小治田の年魚道の湧き水は名水だったらしく、それに託して片恋の悩みを詠んだ男の歌です。この歌のように、初めに場所を示し、次にそこにある景物を提示し、景物を尻取り式に繰り返して本旨に転換する手法は古代歌謡の基本的な様式の一つであり、民謡の様式に由来するとされます。
3261は女が男の疎遠を嘆いた歌で、「思ひ遣る」は、思いを晴らす。「すべのたづきも」の「すべ」は手段、「たづき」は手がかり。同意語を重ねて強めているもの。「年の経ゆけば」の原文「年之歴去者」で、トシノヘヌレバと訓むものもあります。3262は「或る本の反歌に曰く」とある歌。「瑞垣の」の「瑞垣」は神社の垣のことで、昔から久しくはある意で「久しき」にかかる枕詞。「久しき時ゆ」は、久しい間を、ずっと以前から。なお、3261の左注には、男の長歌に3261の女の反歌がついているところから、「今考えてみると、この反歌に『君に逢はず』というのは当たらない。『妹に逢はず』と言うべき」とあります。しかし、妹を君の敬称で呼んでいる例は他に少なくなく、この左注の指摘は必ずしも当たってはいません。女の独立した歌が何らかの理由で添えられたとみられますが、あるいは、あくまで男の歌と見て、「妹」を「君」と呼ぶ東国の方言的な用法があったのではという見方もあります。また3262は、長歌とは結びつかない歌であり、詠み方も大きく乖離があるものです。

賀茂真淵の『万葉考』
江戸時代中期の国学者・歌人である賀茂真淵(1697~1769年)の著書には多くの歌論書があり、その筆頭が、万葉集の注釈書『万葉考』です。全20巻からなり、真淵が執筆したのは、『万葉集』の巻1、巻2、巻13、巻11、巻12、巻14についてであり、それらの巻を『万葉集』の原型と考えました。また、その総論である「万葉集大考」で、歌風の変遷、歌の調べ、主要歌人について論じています。
真淵の『万葉集』への傾倒は、歌の本質は「まこと」「自然」であり「端的」なところにあるのであって、偽りやこまごまとした技巧のようなわずらわしいところにはないとの考えが柱にあり、そうした実例が『万葉集』や『古事記』『日本書紀』などの歌謡にあるという見解から始まります。総論の「万葉集大考」には以下のように書かれています。「古い世の歌というものは、古いそれぞれの世の人々の心の表現である。これらの歌は、古事記、日本書紀などに二百あまり、万葉集に四千あまりの数があるが、言葉は、風雅であった古(いにしえ)の言葉であり、心は素直で他念のない心である」。
さらに、若い時に『古今集』や『源氏物語』などの解釈をしてきた自身を振り返り、「これら平安京の御代は、栄えていた昔の御代には及ばないものだとわかった今、もっぱら万葉こそこの世に生きよと願って、万葉の解釈をし、この『万葉考』を著した」と記しています。そして「古の世の歌は人の真心なり。後の世の歌は人の作為である」とし、万葉の調べをたたえ、万葉主義を主張して、以後の『万葉集』研究に大きな影響を与えました。
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