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巻第13(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第13-3263~3265

訓読

3263
隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち 下(しも)つ瀬に 真杭(まくひ)を打ち 斎杭には 鏡を掛(か)け 真杭には 真玉(またま)を掛け 真玉なす 我(あ)が思(おも)ふ妹(いも)も 鏡なす 我が思ふ妹(いも)も ありといはばこそ 国にも 家にも行かめ 誰(た)がゆゑか行かむ
3264
年渡るまでにも人はありといふを何時(いつ)の間(ま)にそも我(あ)が恋ひにける
3265
世の中を憂(う)しと思ひて家出(いへで)せし我(われ)や何にか還(かへ)りて成らむ

意味

〈3263〉
 泊瀬川の上流に神聖な杭を打ち、下流には立派な杭を打ち、上流の杭には鏡を掛け、下流の杭には真玉を掛けて祈る。その鏡や玉のように美しい恋人が国もとの家にいるのなら、私は家に帰ろう。いもしないのになぜ帰ることがあろうか。
〈3264〉
 一年が過ぎるまで人は堪えているというのに、いったい私はいつの間に恋に落ち、苦しんでいるのか。
〈3265〉
 世の中をうっとうしいと思って出家した私は、今さら帰って、いったい何になればいいというのか。

鑑賞

 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ:允恭天皇の皇子)の作として『古事記』にある歌が、『万葉集』では作者を伝えずに載せられています。『古事記』によれば、軽皇子は同母妹である軽大郎女(かるのおおいらつめ)と姦通して伊予に流され、追って来た軽大郎女とともに自殺したとあり、その時に詠まれた歌とされます。しかしながら、この歌の冒頭は何らかの儀礼のようであり、後半は旅先で妻の死を聞いての嘆きの歌のようになっています。時系列では、万葉のこの歌の方が先であり、広く愛誦されていたものを若干改作して『古事記』に取り入れ、軽皇子の悲話に転用されたのかもしれません。

 
3263の「隠口の」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の川」は、奈良県桜井市初瀬の峡谷に発し、三輪山の南を通り大和川に合流する川。「上つ瀬」は、川上のほうの瀬。「斎杭」は、斎み浄めた神聖な杭。「真杭」「真玉」の「真」は、美称の接頭語。「真玉なす」「鏡なす」の「なす」は、~のように、~の如くで、いずれも大切に思うことの譬え。「ありといはばこそ」の「あり」は、生きている、無事でいる。ここは、以前と同じさまでいるというならば、のように解するものもあります。「国にも家にも行かめ」の「行かめ」は「こそ」の係り結びで、国へも家へも行こう。「誰がゆゑか行かむ」の「か」は反語で、ほかの誰ゆえに行こうか、行きはしない。

 
3264の「年渡るまでにも」は、一年に渡っての間をも。「人はありといふを」の「人」は、世間の人。「あり」は、そのままの状態でいる。「を」は逆接。窪田空穂は、「一年に一度よりは妹に逢わない彦星を思って、自分の逢うていくぱくもないのに起こる恋ごころを嘆いているものである。これは独立しての相聞としても、知性的なもので、長歌とは何の繋がりもないものである」と説明しています。

 
3265は「或る書の反歌に曰はく」とある歌ですが、内容的には何の関係もなく、かなり後になって、別の作者による歌がここに置かれたのかもしれません。詩人の大岡信によれば、「一首独立の歌として見るなら、これは仏教の教えを説く釈教歌と見ていいもので、こういう形で反歌をつけていく場合もあった」と言います。「家出せし」は、出家した。「我や何にか」の「や」は、感動の助詞。「還りて」は、還俗して。
 


窪田空穂と『万葉集』

 歌人であり国文学者でもあった窪田空穂(くぼたうつぼ:1877〜1967年)にとって、『万葉集』の研究は生涯をかけた一大事業であり、彼の短歌論の精神的支柱でした。賀茂真淵をはじめとする江戸期の国学者が「古道」や「精神の復古」を重視したのに対し、空穂の万葉研究は「一人の歌人としての共感」と「近代的・人間心理的なアプローチ」に大きな特徴があります。

  1. 記念碑的業績『万葉集評釈』
     空穂の万葉研究の集大成が、全12巻(索引含め13冊)に及ぶ巨著『万葉集評釈』です(当サイトでもっとも多く引用している文献です)。それまでの万葉集の注釈書(仙覚の『万葉集抄』、真淵の『万葉考』、鹿持雅澄の『万葉集古義』など)の成果を踏まえつつも、空穂は独自の視点を貫きました。単なる言葉の歴史的解釈(語釈)にとどまらず、「その歌が詠まれた時、作者の心はどう動いていたのか」という作者の心理や感情のダイナミズムを、緻密かつ平易な現代語で解き明かしたのです。歌人としての鋭い感性をもって一首一首の「調べ」や「息遣い」を追体験するようなその評釈は、今なお万葉集研究・鑑賞の最高峰の一つとして高く評価されています。
  2. 『万葉集』に見た「人間性の真実」
     空穂は『万葉集』の魅力を、技巧の洗練ではなく「むき出しの人間性」に見出しました。空穂は、後世の和歌(古金・新古今など)が「理知」や「ことばの遊芸」に傾斜していったのに対し、万葉の歌は「情感」そのものが結晶化したものであると捉えました。天皇や貴族の歌だけでなく、防人や東国の庶民が詠んだ歌(東歌・防人歌)に、人間の生々しい生活の哀歓や、飾らない愛情がそのまま表現されていることに深く共感しました。彼は「歌とは、生活のなかで心が動かされたときに自然と湧き出るもの(生活詠)」という信念を持っており、その理想の姿を万葉の歌人たちに重ね合わせていたのです。
  3. 実作への反映~独自の「写実」と「生活」
     空穂は、正岡子規や斎藤茂吉らの「アララギ」とは異なる独自の写実主義(『国民文学』を主宰)を歩みましたが、その根底にはやはり万葉精神が流れていました。アララギ派が「万葉集の言葉や調べ(写生)」を直接的に模倣する傾向があったのに対し、空穂は万葉の「精神(人間や自然に対する、直截で嘘のない眼差し)」を現代の日常に活かそうとしました。彼の代表歌である、若くして先立たれた妻を悼む一連の「愛子(かなしご)のうた」などに見られる深い人間愛と哀傷は、万葉の相聞歌や挽歌(特に山部赤人や山上憶良、あるいは大伴家持らが見せた、他者や家族への深い慈しみ)に通じるものがあります。
     空穂の評釈を読めば、1200年以上前の万葉人が、現代の私たちと全く変わらないことで悩み、恋し、涙していたことが鮮やかに伝わってきます。彼は、難解な『万葉集』を「学問の書」から「血の通った人間の告白録」へと開き直した、最大の功労者と言えます。

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古典に親しむ

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