| 訓読 |
3263
隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち 下(しも)つ瀬に 真杭(まくひ)を打ち 斎杭には 鏡を掛(か)け 真杭には 真玉(またま)を掛け 真玉なす 我(あ)が思(おも)ふ妹(いも)も 鏡なす 我が思ふ妹(いも)も ありといはばこそ 国にも 家にも行かめ 誰(た)がゆゑか行かむ
3264
年渡るまでにも人はありといふを何時(いつ)の間(ま)にそも我(あ)が恋ひにける
3265
世の中を憂(う)しと思ひて家出(いへで)せし我(われ)や何にか還(かへ)りて成らむ
| 意味 |
〈3263〉
泊瀬川の上流に神聖な杭を打ち、下流には立派な杭を打ち、上流の杭には鏡を掛け、下流の杭には真玉を掛けて祈る。その鏡や玉のように美しい恋人が国もとの家にいるのなら、私は家に帰ろう。いもしないのになぜ帰ることがあろうか。
〈3264〉
一年が過ぎるまで人は堪えているというのに、いったい私はいつの間に恋に落ち、苦しんでいるのか。
〈3265〉
世の中をうっとうしいと思って出家した私は、今さら帰って、いったい何になればいいというのか。
| 鑑賞 |
木梨軽皇子(きなしのかるのみこ:允恭天皇の皇子)の作として『古事記』にある歌が、『万葉集』では作者を伝えずに載せられています。『古事記』によれば、軽皇子は同母妹である軽大郎女(かるのおおいらつめ)と姦通して伊予に流され、追って来た軽大郎女とともに自殺したとあり、その時に詠まれた歌とされます。しかしながら、この歌の冒頭は何らかの儀礼のようであり、後半は旅先で妻の死を聞いての嘆きの歌のようになっています。時系列では、万葉のこの歌の方が先であり、広く愛誦されていたものを若干改作して『古事記』に取り入れ、軽皇子の悲話に転用されたのかもしれません。
3263の「隠口の」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の川」は、奈良県桜井市初瀬の峡谷に発し、三輪山の南を通り大和川に合流する川。「上つ瀬」は、川上のほうの瀬。「斎杭」は、斎み浄めた神聖な杭。「真杭」「真玉」の「真」は、美称の接頭語。「真玉なす」「鏡なす」の「なす」は、~のように、~の如くで、いずれも大切に思うことの譬え。「ありといはばこそ」の「あり」は、生きている、無事でいる。ここは、以前と同じさまでいるというならば、のように解するものもあります。「国にも家にも行かめ」の「行かめ」は「こそ」の係り結びで、国へも家へも行こう。「誰がゆゑか行かむ」の「か」は反語で、ほかの誰ゆえに行こうか、行きはしない。
3264の「年渡るまでにも」は、一年に渡っての間をも。「人はありといふを」の「人」は、世間の人。「あり」は、そのままの状態でいる。「を」は逆接。窪田空穂は、「一年に一度よりは妹に逢わない彦星を思って、自分の逢うていくぱくもないのに起こる恋ごころを嘆いているものである。これは独立しての相聞としても、知性的なもので、長歌とは何の繋がりもないものである」と説明しています。
3265は「或る書の反歌に曰はく」とある歌ですが、内容的には何の関係もなく、かなり後になって、別の作者による歌がここに置かれたのかもしれません。詩人の大岡信によれば、「一首独立の歌として見るなら、これは仏教の教えを説く釈教歌と見ていいもので、こういう形で反歌をつけていく場合もあった」と言います。「家出せし」は、出家した。「我や何にか」の「や」は、感動の助詞。「還りて」は、還俗して。

長歌と短歌
長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。
長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。
『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。
人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。
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