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巻第13(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第13-3301~3304

訓読

3301
神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 朝なぎに 来寄(きよ)る深海松(ふかみる) 夕なぎに 来寄る俣海松(またみる) 深海松(ふかみる)の 深めし我(わ)れを 俣海松(またみる)の また行き帰り 妻と言はじとかも 思ほせる君

3302
紀伊(き)の国の 牟婁(むろ)の江(え)の辺(へ)に 千年(ちとせ)に 障ることなく 万代(よろづよ)に かくしもあらむと 大船(おおふね)の 思ひ頼みて 出立(いでたち)の 清き渚(なぎさ)に 朝なぎに 来寄る深海松(ふかみる) 夕なぎに 来寄る縄海苔(なはのり) 深海松の 深めし児(こ)らを 縄海苔の 引けば絶(た)ゆとや 里人(さとびと)の 行きの集(つど)ひに 泣く子なす 靫(ゆき)取り探(さぐ)り 梓弓(あづさゆみ) 弓腹(ゆばら) 振り起こし しのぎ羽(は)を 二つ手挟(たばさ)み 放ちけむ 人し悔(くや)しも 恋ふらく思へば

3303
里人(さとびと)の 我(あ)れに告(つ)ぐらく 汝(な)が恋ふる 愛(うるは)し夫(づま)は 黄葉(もみちば)の 散りまがひたる 神奈備(かむなび)の この山辺(やまへ)から[或る本に云く、その山辺] ぬばたまの 黒馬(くろま)に乗りて 川の瀬を 七瀬(ななせ)渡りて うらぶれて 夫(つま)は逢ひきと 人そ告げつる
3304
聞かずして黙(もだ)もあらましを何(なに)しかも君が直香(ただか)を人の告げつる

意味

〈3301〉
 神風が吹く伊勢の海の、朝なぎに岸に寄ってくる深海松(ふかみる)、夕なぎに岸に寄ってくる俣海松(またみる)、その深海松のように深く恋い焦がれてきたのに、俣海松のようにまた戻ってきて、私を妻と呼ぼうとは思っていないのですか、あなたは。

〈3302〉
 紀の国の牟婁の入江のあたりに、千年にもわたって何の差し障りもなく、万代にもわたってこのままあるだろうと、大船に乗ったような思いで出で立とうとする、その出立の清らかな渚に、朝なぎに寄ってくる深海松(ふかみる)、夕なぎに寄ってくる縄海苔(なはのり)。その深海松のように深く思ってきたあの子なのに、その縄海苔のように引けば切れる仲だと思ってか、里人が行き交うところであの子を見つけ、梓弓の弓腹を立てて、しのぎ羽の矢を二つ手挟んで放つようにあの子を引き離した人が憎い。こんな切ない気持ちになると思えば。

〈3303〉
 里人が私にこう告げてくれた。あなたが恋うている愛する夫は、黄葉が散り乱れる、神奈備の山裾を通って、黒馬に乗り、川の瀬を幾度も渡り、しょんぼりとした姿で出逢ったと、その人は私に告げたことであるよ。
〈3304〉
 聞かせないで黙っていてほしかったものを。どうしてあの人の様子を、里人は知らせたのだろう。

鑑賞

 3301は、男から絶縁された女が復縁を訴えている歌とされます。「神風の」は「伊勢」の枕詞。「朝なぎ」は、朝、陸風から海風に変わる時に起こる無風状態。「深海松」は、海中深く生えている海藻のミル。「夕なぎ」は、夕方、海風から陸風に変わる時に起こる無風状態。「俣海松」は、深海松の茎が股のように分かれているところからの異称。「深めし我れを」は、心に深く思っている我を。「行き帰り」は、行って戻ってくる意。「妻と言はじとかも思ほせる君」は、妻と呼ぼうとはお思いにならない君。「かも」は、疑問の係助詞。遊行女婦の歌ではないかとする見方もあります。

 3302は、関係のあった女を奪われてしまった男の怒りの歌。「牟婁の江」は、和歌山県田辺市の田辺湾。「かくしあらむと」の「し」は、強意の副助詞。「かく」は現在の状態を指しますが、ここは「このように仕合せにありたい」の意と見られます。「大船の」は、大船が頼りになることから「頼み」にかかる枕詞。「出立の」は、家を出て行った所で、門前。「深海松」は、海中深く生えている海藻のミル。「縄海苔」は、縄のように細長い海藻。「深海松の」「縄海苔の」は、それぞれ「深めし」「引けば絶ゆ」の比喩的枕詞。「里人の行きの集ひ」は、里人が行き集っている所。歌垣などの場との見方もあります。「泣く子なす」は、泣く子のようにで、泣く子が乳をさぐり求める意から「取り探り」にかかる比喩的枕詞。「靫」は、矢を入れる器。「弓腹」は、弓の中央部。「しのぎ羽」は、語義未詳ながら、羽による矢の名称か。「里人の~二つ手挟み」は「放ち」を導く譬喩式序詞。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。

 この歌について、文学者の曽倉岑は次のように解説しています。「主人公の男は自信家なのか素直なのか、今の状態に満足し、これがいつまでも続くと期待している。ところが『深めし子』は、歌垣で他の男に誘われるとあっさりと応じてしまい、主人公との関係も絶ってしまったのである。自信家の男はそんな事になるはずはないと思っていた。それだけに被害感情も強く、他人に引き離されたと感じたし、自分が何もしなかったことを今になって後悔しているのである」。

 3303の「告ぐらく」は「告ぐ」のク語法で名詞形。「愛し夫は」の原文「愛妻者」ですが、反歌に「君」とあるので、ここの「妻」は他にも例のある夫にあてた字と取っています。一方、文字通りの妻と解する説もあり、その場合はウツクシツマハと訓んでいます。「散りまがひたる」の原文「散乱有」で、チリミダレタルと訓むものもあります。「神奈備」は、神が降りる山や森。近くに川が流れているところから明日香の神奈備すなわち雷丘とされます。「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「七瀬」は、多くの瀬。「うらぶれて」は、しょんぼりと。「人ぞ告げつる」は、人が告げたことであるよと、詠嘆してのもの。

 3304は、3303の反歌。「聞かずして」は、人の告げた「君が正香」を聞かないで。「黙」は、黙っていること。「あらましを」の「まし」は、反実仮想。上掲の解釈は、人が自分に対し黙っていてほしかったものを、としていますが、自分自身のことを言っていると見る説もあります。「何しかも」の「し」は強意、「も」は詠嘆の助詞。どうして。「直香」は、ここはその人の様子・状態の意。

 この歌を挽歌とみるものもありますが、編集者はそうは認めず、相聞の中に加えています。しかし、窪田空穂は、この歌を挽歌と見るとすべて自然に感じられるとして、次のように述べています。「上代の夫妻は別居して暮らしたのと、その間を秘密にしていたなどの関係から、そのいずれかが死んだ場合にも、ただちに通知しなかったことは、挽歌に多く見えていることで、この歌もそれである。また、死者を生者のごとくいっているのは、死者を怖れる心から尊んですることであって、これも特別のことではない」



うるはし

 ウルハシの原意は、細部まで完璧に整った理想の状態を讃めるところにある。基本的には神の属性であり、そこから光り輝くような美を意味した。それゆえ、神はしばしばウルハシと形容された。「神代紀下」で、アヂスキタカヒコネ神が、「光儀(よそほひ)華艶(うるは)しく、二丘二谷の間に映(てりかがや)く」と描かれていることが、その例証となる。「華艶」をウルハシと訓むのは、古訓による。

 『万葉集』のウルハシは、多くは人に対して用いられるが、その場合も整った理想の姿の形容であることが多い。互いの厚い交情を、ウルハシの動詞化であるウルハシミスを用いて表現した例もある。また、ウルハシは、土地への讃美に用いられることもある。

 ウルハシは、神の属性であり、いささかの欠点もなく完璧に整った状態を示すから、人間の行動に対して用いられた場合、その几帳面さを強調することにもなり、融通の利かない四角四面さをむしろ否定的に捉えるような例も、時代が下ると出てくる。『源氏物語』で、あまりにも古風な生活を墨守する末摘花(すえつむはな)が「かやうにうるはしくぞものしたまひける」(「蓬生」)と評されているのはその一例になる。 

~『万葉語誌』から抜粋引用

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