本文へスキップ

巻第13(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第13-3326~3328

訓読

3326
磯城島(しきしま)の 大和の国に いかさまに 思ほしめせか つれもなき 城上(きのへ)の宮に 大殿(おほとの)を 仕へ奉(まつ)りて 殿隠(とのごも)り 隠(こも)りいませば 朝(あした)には 召(め)して使ひ 夕(ゆふへ)には 召して使ひ 使はしし 舎人(とねり)の子らは 行く鳥の 群がりて待ち あり待てど 召したまはねば 剣大刀(つるぎたち) 磨(と)ぎし心を 天雲(あまくも)に 思ひはぶらし 臥(こ)いまろび ひづち泣けども 飽き足らぬかも

3327
百小竹(ももしの)の 三野(みの)の王(おほきみ) 西の厩(うまや) 立てて飼(か)ふ駒(こま) 東(ひむがし)の厩(うまや) 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふと言へ 水こそば 汲(く)みて飼ふと言へ 何しかも 葦毛(あしげ)の馬の い鳴き立ちつる
3328
衣手(ころもで)葦毛(あしげ)の馬のい鳴く声(こゑ)心(こころ)あれかも常(つね)ゆ異(け)に鳴く

意味

〈3326〉
 礒城島の大和の国で、どう思われたのか、縁もゆかりもない城上の宮に御殿を作られてお隠れになっているので、朝には召して用を仰せになり、夕べにはやはり召されて用を仰せになった舎人たちは、飛ぶ鳥が群がるように群がってお召しを待ち、ずっとお待ちしているのに、一向にお召しがないので、心をとぎ澄まして張りつめていた思いは、天雲のように散らして、転げまわり涙に濡れて泣くけれども、悲しみは少しも晴れることがない。

〈3327〉
 栄えておられた三野王が、西に馬屋を建てて飼う馬、東に馬屋を建てて飼う馬。草はどっさり取ってきて与えてあるというのに、水はたっぷり汲んできて与えてあるというのに、どういうわけで、葦毛の馬たちはこんなに鳴き立てるのか。
〈3328〉
 葦毛の馬のいななく声は、主人を悲しむ心があるかのように、いつもとは違う声で鳴いている。

鑑賞

 3326は、城上の殯宮においての舎人の心を詠んだ歌。墓所が城上(桜井市戒重あたりか)であるのと、殯宮の儀の厳めしさから見て、草壁皇子か高市皇子の際のものではないかといいます。「磯城島の」は「大和」の枕詞。「いかさまに思ほしめせか」は、どう思われたのか、何と思し召してか。「つれもなき」は、縁もゆかりもない。「大殿」は、ここでは殯(あらき)の宮。「仕へ奉りて」は、殯の宮を造営したことを言っています。「殿隠り」は、殿の内に引き籠って。「行く鳥の」は「群がり」にかかる比喩的枕詞。「群がりて待ち」は、昼夜交替で奉仕している意。「剣大刀」は「磨ぎ」にかかる比喩的枕詞。「天雲に」の「に」は、~のように。「臥いまろび」の「臥ゆ」は横になる意、「まろぶ」は転がる意。「ひづち泣く」は、涙に濡れて泣く。

 窪田空穂はこの歌を評し、「歌は悲しみを尽くそうとしていっているものであるが、表現が伴いかねる、あるたどたどしさのあるものである。こうした際の歌は長歌形式が本道であろうが、それによっているものは少ない。この歌はとにかく長歌をもってしているものである」と述べています。

 3327・3328は、三野王(みののおおきみ)が亡くなった時の歌。三野王は橘諸兄(たちばなのもろえ)の父で、672年の壬申の乱では天武側につき、その後天武天皇・持統天皇に仕えました。和銅元年(708年)に従四位下で没。3327の「百小竹の」は、たくさんの篠が茂る野の意で「三野」にかかる枕詞。「立てて飼ふ駒」の「立てて」は、駒を立てて、とする説もあります。「飼ふと言へ」の原文「飼日戸」は「飼旱」とする本があり、カフガニと訓むものもあります。「何しかも」の「し」は強意、「かも」は疑問の係助詞で、結句の「立ちつる」の「つる」が結び。「葦毛の馬の」の原文「大分青馬之」で、マサヲノウマノと訓むほか違訓が多くあります。3328の「衣手」は「葦毛」の枕言葉ながら、掛かり方未詳。「い鳴く声」の原文「嘶音」で、イバエコヱと訓むものもあります。「常ゆ異に」は、いつもと違って。

 馬たちは、屋敷内がふだんと違う雰囲気であるのを察知し、可愛がってくれている主人が姿を見せないことに異変を感じて鳴き立てたのでしょうか。万葉学者の伊藤博はこの歌を、「簡素な言葉づかいと古樸な調べの中に真情が溢れる」と評しています。
 


挽歌について

 死は人間が避けることのできない事象の一つであり、古来、身近な人の死や敬愛する人の死、そして、やがて訪れる自らの死を、どのように捉え克服していくのかが、文学に託された一つの課題であったといえます。平安時代から現代に至るまでの、日本人の死葬儀礼や死生観に深く結びついてきたのは主に仏教ですが、仏教が伝わる以前の上代には、わが国独自の古い死生観に基づく儀礼がとり行われ、それらを反映する神話や歴史叙述、歌謡や和歌が記されました。

 『万葉集』にも、人の死に関わる歌が多く収載されています。『万葉集』は、雑歌・相聞・挽歌という三大部立を基本構造として持ち、人の死に関わる歌は主に「挽歌」の部に収められています。つまり『万葉集』における「挽歌」は、天皇や宮廷に関わる公的儀礼歌である「雑歌」や、恋の歌である「相聞」と並ぶ重要な位置を占めていたのです。ここから、当時の人々が死や死葬文化をいかに重要視していたかが分かります。ただ、平安期以降の勅撰和歌集では、人の死に関わる歌は哀傷(または哀傷歌)の部に収められ、挽歌という部立名は使われなくなりました。従って、挽歌は多くの和歌集のうち『万葉集』だけにしか見えない呼称となっています。

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。