| 訓読 |
3333
大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 秋津島(あきづしま) 大和を過ぎて 大伴(おほとも)の 御津(みつ)の浜辺(はまへ)ゆ 大船(おおぶね)に 真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き 朝なぎに 水手(かこ)の声しつつ 夕なぎに 楫(かぢ)の音(おと)しつつ 行きし君 いつ来(き)まさむと 占(うら)置きて 斎(いは)ひ渡るに 狂言(たはこと)か 人の言ひつる 我(あ)が心 筑紫(つくし)の山の 黄葉(もみちば)の 散り過ぎにきと 君が正香(ただか)を
3334
狂言(たはこと)か人の言ひつる玉の緒(を)の長くと君は言ひてしものを
| 意味 |
〈3333〉
大君の仰せを恐れ多くもお受けし、大和をあとにして、大伴の御津の浜辺から、大船に櫂を貫き並べ、朝凪どきに水手の掛け声高く、夕凪どきに梶の音も賑やかに船出したあの方。いつ戻っていらっしゃるのかと、占いを立てて神様にお祈りし続けていたのに、誰がでたらめを言ったのか、我が心を尽くすという筑紫の山の黄葉のように散っていかれたという、まぎれもないあの方のあの姿が。
〈3334〉
誰がでたらめを言ったのか、玉を通した紐のように長く、長くとあの人は言ってくれていたのに。
| 鑑賞 |
任地の筑紫で亡くなった夫への挽歌。3333の「大君の命恐み」は、天皇の命令を恐れ畏む意の慣用句。「蜻蛉島」は「大和」の枕詞。「大伴の御津」は、大阪市住吉区あたりにあった港で、難波津とも言われます。「御津」は、官用であるところからの尊称。「真楫しじ貫き」は、楫を船の船の両舷にたくさん取り付けて。「朝なぎ」は、朝、陸風から海風に変わる時に起きる無風状態。「夕なぎ」は、朝なぎの反対で、海風から陸風に変わる時起きる無風状態。「占置きて」は、占いを立てて。占いの時には神に幣を供えるので「置きて」と言っています。「斎ひ渡る」は、神に祈り続けている。「狂言」は、たわけた言、でたらめ。「我が心」は、心を尽くす意で「筑紫」にかかる枕詞。「我が心」以下3句は「散り過ぎ」を導く譬喩式序詞。同時に作者の夫が山の黄葉の散る頃に死んだことを描いています。「散り過ぐ」は、死の敬避表現。「正香」は、その人自身、その人の姿。
この歌について、窪田空穂は次のように評しています。――勅命で筑紫へ遣わされた官人の妻が、その夫が、黄葉の散る頃、任地で死んだという報告を、使の者から聞いた際の心である。この種の歌としては知性的で、感情の細かいもので、したがって新味も持ったものである。起首の旅行のさまは、慣用句を連ねたものであるが、これは勅命の旅というので、その勅命を重んずる心から精細にいったもので、合理的である。「秋津島大和を過ぎて」が、その心をよくあらわしている。「占置きて斎ひ渡るに」は多少の新味がある。「狂言や人の言ひつる」は慣用句であるが、「我が心筑紫の山の黄葉の」という序詞は、相応に巧みなものである。結句の「君が正香を」は、「占置きて斎ひ渡るに」と照応しうるものであり、日頃の夢なども連想させうるもので、巧妙といえるものである。
3334の「玉の緒の」は「長く」にかかる比喩的枕詞。「長く」は、直接には命長くの意ながら、長く契り交わしての意も含んでいるのでしょう。「言ひてしものを」の「ものを」は逆接の助詞で、言ったのに。

正香
その人自身。「直香」の用字も用いる。万葉集に6例あり、全て「妹が」「君が」から接続する。明確な意味は取り難いが、「正」「直」は現前するもの、「か」は「住処(すみか)」の「か(処)」と同じといわれる。すべて恋する相手を対象とする歌にみられ、不在の相手を現前のものとする表現である。笠朝臣金村の歌(9-1787)では、「うつせみの世の人なれば」と詠い出し、「寝も寝ずにわれはそ恋ふる妹が直香に」と直接対象に逢いたい感情を詠み込んでいることから、正に眼前に恋しい相手を求め、その現実の存在を指す語として正香が用いられていると考えられる。他例も相聞的な歌に用いられるが、命を受けた旅路にある相手を想う歌(13-3333、17-4008)において用いられている点や、人から想い人の死を告げられる形式の類型と考えられる歌(13-3304、13-3333)に用いられている点には注目される。17-4008は「手向の神」に祈り、対象の正香を「相見しめ」と願う歌であり、13-3333は、「卜置きて斎ひ渡る」にも関わらず、対象の正香が黄葉のように散ってしまったことを伝えられる歌である。このように正香は、離れた対象の無事を祈る際に切に願う相手そのものであり、対象が死んだ際に失われる相手そのものでもあると考えられる。
~『万葉神事語辞典』から引用
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巻第13の歌が詠まれた時代
(窪田空穂の評論から)
本巻の歌の作られた時代は、その作者が不明であるがゆえに明らかには立証し難い。最も明らかな歌は、三野王(みののおおきみ)の薨去の時、何びとかが作った歌(3327)であって、王の薨去は和銅元年である。ついでは人麿歌集の歌で、これはいうまでもない。他はすべてその歌の取材、歌中の地名、その他のことによって推量するよりほかないものばかりである。
今試みに、目につく物の少数を拾って挙げると、泊瀬を生地とする男が、旅にあってその生地を思う歌(3263)は、左注にいっているように、古事記、允恭天皇の巻の木梨軽の太子の自ら死する際の歌と密接な関係をもっているものである。一と口にいうと、この歌が太子の歌物語に資料として取り入れられたのであろうと思われるものである。それとすると太子の歌物語が成立した以前のもので、相応に古い物とすべきである。取材、地名から見て、圧倒的に多いのは、飛鳥藤原時代のものである。地名より見ると、飛鳥の雷丘の神を守護神とする信仰の歌で、これは三諸の神南備山という普通名詞を、雷丘の代名詞として、固有名詞扱いをしているのでも知られる。また、大和の男で、近江の湖辺に妻を持っていて、そこへ通うことを道行き風に詠んだ歌が三首ある。遠方の地に妻を持つことは必ずしも特殊なことではないが、この巻の歌は、近江朝時代に結ばれた夫婦関係の延長ではないかと思わせるものがある。巻一所収の、天武天皇の吉野で詠まれたという長歌の原形、持統天皇の行幸の際の歌かとされるもの、日並皇子尊の挽歌と思われるものなどを初めとして、その時代の作と思われるものが本巻の主体をなしている。
これについでは奈良朝時代の歌であるが、これは多くはない。取材、地名の手がかりのないものは、歌風より推量するほかはないが、これは本文についていうべきで、概言はし難い。以上を総括すると、本巻は大体飛鳥藤原時代の作が主体となっており、これにそれ以前の時代の少数と、奈良朝時代の、さらにそれよりも少数の作が加わっている巻である。
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