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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3398~3401

訓読

3398
人皆(ひとみな)の言(こと)は絶ゆとも埴科(はにしな)の石井の手児(てご)が言な絶えそね
3399
信濃道(しなぬぢ)は今の墾(は)り道 刈りばねに足踏ましなむ沓(くつ)はけ我(わ)が背
3400
信濃(しなぬ)なる筑摩(ちくま)の川の細石(さざれいし)も君し踏みてば玉と拾はむ
3401
中麻奈(なかまな)に浮き居(を)る船の漕ぎ出なば逢ふこと難(かた)し今日(けふ)にしあらずは

意味

〈3398〉
 たとい世間の人との交際が絶えようとも、埴科の石井の乙女との関係だけは絶えないでほしいものだ。
〈3399〉
 信濃道(しなのぢ)は切り拓いたばかりの道です。きっと切り株をお踏みになるでしょう。靴を履いてお越しになって下さい、あなた。
〈3400〉
 信濃を流れる千曲川の小石でも、あの方が踏んだ石なら玉と思って拾いましょう。
〈3401〉
 中麻奈に漂っている船を漕ぎ出してしまえば、逢うことが難しい。今日のこの時でなければ。

鑑賞

 信濃の国(長野県)の歌。3398の「人皆の」は、世間の人すべてとの。ここは里のすべての人を指します。「言は絶ゆとも」は、交際が絶えようとも。「埴科」は、信濃の郡名で、今の千曲市あたり。「石井」は、湧き水を石で囲んだ井。いわゆる掘り抜き井戸だけでなく、川や池に設けられた水場や水が湧き出る場所なども「井」と呼ばれました。ここは、この石井に基づく里の名と見られます。「手児」は、かわいい乙女の意で、「石井の手児」は「真間の手児名」と同様に、地域の伝説の美女ではないかとされます。「な絶えそね」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「ね」は、願望。作者は、里で評判の女を伝説の美女になぞらえ、たとい村八分にされてもいいから我が物にしたいと言っています。

 
3399の「信濃道」は、信濃の国府へ行く道。「今の墾り道」は、新しく切り開いた道。『続日本紀』に、美濃と信濃を結ぶ道が、大宝2年(702年)から12年かかって開通したという記録があり、その道が完成して間もないころの歌とみられます。「刈りばね」は、刈り払った後の木の切り株。「踏むまし」の「し」は 尊敬の助動詞。お踏みになるでしょう。このころの一般庶民は裸足で、沓(くつ)は正式なものは革製でしたが、ふつうは布や藁(わら)などで作られました。「沓履け」の「履け」は使役形とも考えられ、「馬が切り株を踏まないように靴を履かせよ」とする解釈も成り立ちます。この歌は、女の許へ通ってきた男が帰ろうとする時に女が言ったものですが、親愛をこめたからかいのようでもあります。一方、歌があまりに整いすぎていることから、都から信濃へ下る官人の妻の作ではないかとも言われます。また、「信濃路」という呼称は、地元民の命名ではありえないようにも感じられるところです。

 
3400の「信濃なる」は、信濃国にある。「千曲の川」は、現在の千曲川。原文では「知具麻能河」と表記されており、「ちぐま」と濁って発音されたようです。長野県南佐久郡に流れを発し、長野市の犀川で合流し、新潟県に入ると信濃川と呼ばれます。「細石」は、川原の砂利石のこと。「玉と拾はむ」は、玉と思って拾おう。恋人を偲ぶよすがとなるものだったら、小石でさえ愛しく思う女性のいじらしい心理が歌われています。作家の田辺聖子は、この「君し踏みてば玉と拾はむ」の句について、「どうしてこういう詩が古代びとの唇から、いともやすやすとこぼれおちるのか。その言葉こそ、片言節句、珠ではないか」との評を寄せています。また、この歌も非常に洗練されていて、訛りや方言もないことから、都の官人が信濃へ下ったもので、その妻の詠んだ歌ではないかとも言われています。

 
3401の「中麻奈」は語義未詳ながら、信濃の川はすべて渓流の趣きがあり、流れの幅も狭く、「中」の名を冠していることから、中流あるいは中州の意とする説や、「ちぐまな」と訓み「千曲川」とみる説などがあります。「浮き居る船」は、係留している船。「漕ぎ出なば」は、漕ぎ出してしまったならば。「逢ふこと難し」は、逢うことが難しくなる。「今日にしあらずば」の「し」は、強意の副助詞で、今日でなければ。川船で遠い旅へ出ようとする男を見送りに来た女が、船を眼前に見ながら、出発までのしばらくの時を惜しんでいる歌です。2句目の「浮き居る船」は、波に揺られていつどこへ流れていくかわからない不安定な存在、すなわち、当時の恋愛の、明日にはどうなるか分からないという脆さ、いつ消えるかわからない縁を託しているかのような表現です。
 


賀茂真淵の『万葉考』

 江戸時代中期の国学者・歌人である賀茂真淵(1697~1769年)の著書には多くの歌論書があり、その筆頭が、万葉集の注釈書『万葉考』です。全20巻からなり、真淵が執筆したのは、『万葉集』の巻1、巻2、巻13、巻11、巻12、巻14についてであり、それらの巻を『万葉集』の原型と考えました。また、その総論である「万葉集大考」で、歌風の変遷、歌の調べ、主要歌人について論じています。

 真淵の『万葉集』への傾倒は、歌の本質は「まこと」「自然」であり「端的」なところにあるのであって、偽りやこまごまとした技巧のようなわずらわしいところにはないとの考えが柱にあり、そうした実例が『万葉集』や『古事記』『日本書紀』などの歌謡にあるという見解から始まります。総論の「万葉集大考」には以下のように書かれています。「古い世の歌というものは、古いそれぞれの世の人々の心の表現である。これらの歌は、古事記、日本書紀などに二百あまり、万葉集に四千あまりの数があるが、言葉は、風雅であった古(いにしえ)の言葉であり、心は素直で他念のない心である」。

 さらに、若い時に『古今集』や『源氏物語』などの解釈をしてきた自身を振り返り、「これら平安京の御代は、栄えていた昔の御代には及ばないものだとわかった今、もっぱら万葉こそこの世に生きよと願って、万葉の解釈をし、この『万葉考』を著した」と記しています。そして「古の世の歌は人の真心なり。後の世の歌は人の作為である」とし、万葉の調べをたたえ、万葉主義を主張して、以後の『万葉集』研究に大きな影響を与えました。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。