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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3405~3407

訓読

3405
上つ毛野(かみつけの)乎度(をど)の多杼里(たどり)が川路(かはぢ)にも子らは逢はなも一人のみして
3406
上(かみ)つ毛野(けの)佐野(さの)の茎立(くくた)ち折りはやし我(あ)れは待たむゑ来(こ)とし来(こ)ずとも
3407
上(かみ)つ毛野(けの)まぐはしまとに朝日(あさひ)さしまぎらはしもなありつつ見れば

意味

〈3405〉
 上野の乎度(おど)の多杼里(たどり)の川辺で、あの子は逢ってくれないかな、ただ一人で。
〈3406〉
 上野の佐野の青菜の茎を折り取って調理し、私はあなたをお待ちしましょう、たとえ今年はお帰りにならなくとも。
〈3407〉
 上野の地のまぐはしまとに朝日が差してくるように、まぶしくてならない、あなたとこうしてじっと向き合っていると。

鑑賞

 上野(かみつけの)の国(群馬県)の歌。古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる地域と、それぞれを拠点とする政治勢力が存在し、前者の毛野が上・下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」に分かれ、奈良時代に上野(こうづけ)、下野(しもつけ)になったといわれます。

 
3405の「乎度」「多杼里」は地名と見られますが、未詳。「川路」は、川へ行く道、川沿いの道。「子ら」の「ら」は、男性が女性を親しんで呼ぶ接尾語。「逢はなも」の「なも」は「なむ」の東語で、願望の終助詞。「一人のみして」は、たった一人で、一人だけで来てくれて。誰にも邪魔されず、二人きりで逢いたいという意図が含まれています。古代において、川辺は男女が出会う絶好のスポットでした。水汲みや洗濯などの家事の合間に、ふと顔を合わせる。そんな日常的な風景の中で、偶然を装ってでも逢いたいという切実な思いが描かれています。

 
3406の「佐野」は、群馬県高崎市の東南一帯。「茎立」は、蕪(かぶら)・青菜が、春になって花を咲かせるために茎を伸ばした状態のこと。現代の「茎立(くきだ)ち」にあたります。。「折りはやし」は、折り取って調理して食べられるようにする。「はやす」の意は他に、生やして、ほめそやす、切る、などとする説があります。「待たむゑ」の「ゑ」は、詠嘆の終助詞。この「ゑ」は東歌に多く見られる感動や呼びかけの響きで、弾むような明るい決意を感じさせます。「今年来ずとも」は、今年帰って来なくとも。「調理して待つ」の続きとしては飛躍に過ぎるとする見方がありますが、都の衛士などに徴されているとすれば、理解できないではありません。

 
3407の「まぐはしまと」の語義未詳で、地名、あるいは、美しい窓(目妙し間戸)とする説があります。「朝日さし」は、朝の光が差し込んで光り輝く様子。上3句は「まぎらはし」を導く譬喩式序詞。「まぎらはしもな」の「まぎらはし」は、光が強すぎて目が眩む、あるいは対象が鮮やかすぎて心が乱れる(眩惑される)様子を示す形容詞。「もな」は、詠嘆の終助詞。「ありつつ見れば」は、続けてじっと見ていると。「朝日」はこの世の生命力の象徴です。その光が美しい場所に反射している様子は、単なる風景描写を超えて、作者が抱く相手への崇拝に近い恋心を表現しています。まぶしくて直視できないほどに素晴らしい、という最高の賛辞です。なお、男の歌か、女の歌か、定かではなく、両説が拮抗しています。
 


東歌の地名表現について

 東歌には、大きな地名に小さな地名を重ねた言い方をしているものが数多く見られます。ここにある「上つ毛野」で始まる歌もそうですし、他にも「葛飾の真間」「信濃なる千曲の川」「足柄の刀比」「鎌倉の見越の崎」など、くどいとも言える地名表現が多々あります。地元の人たちが詠む歌の物言いとしてはかなり不自然であり、いかにも説明的であるところから、中央の関係者によって手が加えられたものと想像できます。方言が含まれていない歌もたくさん見られます。

● 武田祐吉の『上代国文学の研究』から
 土著人によってその国の地名が詠まるる場合に、国名を冠することはまず無いことだ。これは国名のみならず、小地名に冠する大地名に就きても同様にいうことが出来る。今、巻第十四に就きては、あまりに国名大地名を冠した地名の多きに驚く。上つ毛野を第一句とせる数首の歌も、国府の官人が風流と断じて差支ないようである。

● 折口信夫の『古代研究 国文学篇』から
 東歌は、創作として個性に深く根ざしたものと言うよりも、民謡として普遍的な感情をとり扱うたものが多い。個性の強く現れているように見えるものも、実は、一般式の感動に特殊の魅力を添える為の刺戟を強調したと言うべきものが多い。更に民謡の一の特色として、地名をよみこんだものの多いことである。地名に注意を惹かれるのは、他国人でなければならぬ。東歌に地名が多いのは、偶、東歌が真の東歌でないことを証している、と言う人もある。併し、それは民謡と地名との関係に理会がないから出た議論である。民謡なればこそ地名を詠みこんで、土地に即した印象を与えようとするのである。・・・民謡は流行性を持っているから、各地に転々して謡われる。そうして、地名だけが自由に取り外されて、行った先々の人の口に上るのである。だから、民謡に地名を含んでいることが、その地の根生いでないまでも、必、一度はその地に行われて、その行われた地方で採集せられたことを示すのである。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。