| 訓読 |
3411
多胡(たご)の嶺(ね)に寄(よ)せ綱(づな)延(は)へて寄すれどもあに来(く)やしづしその顔(かほ)よきに
3412
上(かみ)つ毛野(けの)久路保(くろほ)の嶺(ね)ろの葛葉(くずは)がた愛(かな)しけ子らにいや離(ざか)り来(く)も
3413
利根川(とねがは)の川瀬も知らず直(ただ)渡り波にあふのす逢へる君かも
| 意味 |
〈3411〉
多胡の嶺に綱をかけて引き寄せようとしても、ああ悔しい、びくともしない、その顔が美人ゆえに。
〈3412〉
久路保の嶺の葛葉の蔓(つる)が別れて伸びていくように、愛しい妻といよいよ遠ざかって行くことだ。
〈3413〉
利根川を渡る浅瀬の場所も分からないままむやみに渡り、だしぬけに波に遭ったように、思いがけずも逢っているあなたであるよ。
| 鑑賞 |
上野(かみつけの)の国の歌。3411の「多胡の嶺」は、上野国多胡郡にある山。特定の山を指すという説と、象徴的な嶺を指す説があります。「寄せ綱延へて」は、重い物を引き寄せる綱を延ばしてかけて。遠い土地に綱を掛けて引き寄せるという古代の信仰や自然観に基づく表現で、祈年祭の祝詞に「遠き国は八十綱うち懸けて引き寄することの如く」とあり、また出雲風土記には国引き神話としてあるもの。ここは、美貌の女に言い寄って何とか相手の気を引こうとする譬喩。「あに来や」の「あに」は反語の副詞で、どうして寄って来ようか、来はしない。女が一向に靡いてこない譬喩。「しづし」は語義未詳ながら、「静し」で「静けし」の方言と見る説があり、山がじっとして動かない意。「その顔よきに」は、その顔がよいことによって、その美貌をいいことに。
女にまったく相手にされなかった男の自嘲の歌であり、「寄せ綱」を張って手繰り寄せる行為は、険しい山(手強い相手)を攻略しようとする必死な求愛活動を象徴しています。東歌らしい力強さと、泥臭いまでの熱意が感じられる歌であり、窪田空穂は、「風の変わった、手腕のある歌」と評しています。また、東歌の中に、国引き神話のような古い信仰や思想が垣間見えるのも面白いところです。
3412の「久路保の嶺ろ」は、黒檜岳(標高1828m)を最高峰とする赤城山の古名とされます。赤城山は、榛名山・妙義山とともに上毛三山と呼ばれます。「嶺ろ」という東歌特有の言い回しには、故郷の山に対する素朴な愛着が込められています。「葛葉がた」の「がた」は、蔓や細長い糸筋をいう古語で、ここは葛葉の蔓のこと。葛葉の蔓が別れ離れて行くようにの意で、上3句は下2句の譬喩。「愛しけ」は「かなしき」の東語。「子ら」の「ら」は、親愛の情を込めた接尾語。「いや離り来も」の「いや」は、いよいよ、ますます。「離り来」は、遠ざかって行く。「来」は、目的地を主としての語。「も」は、詠嘆の終助詞。愛する女を後に残し、防人などで、信濃路のほうへ向かって行く男が、途中、赤城の山を振り返り、その遠ざかったのを見て、別離の感を新たにしている歌です。窪田空穂は、「調べが張って、感の深さをあらわしている」と評しています。
3413は利根川の上流地域で詠まれた歌で、利根川の名が出てくる唯一の「東歌」です。利根川は、別名、坂東太郎。わが国では信濃川に次ぐ長さですが、全流域面積は日本最大の川です。かつては東京湾に注いでいましたが、近世初期の開削により、今日の利根川は銚子市で海に流れ出ています。「川瀬も知らず」は、川の深いのも浅いのも弁えず、確かめもせず。「波に逢ふのす」の「のす」は、~のようにの意の「なす」の東語で、波に遭ったように。上4句は「思いがけず」の比喩となっていますが、女に逢う直前に男が実際に経験したことでもあるようです。「逢へる君かも」の「かも」は、詠嘆の終助詞で、初めて女の許へ通って行った男が、思いがけずも女と結ばれたことを喜んでいる歌です。他の解釈として、無謀と知りつつあなたに身を任せたのよ、と訴える女の歌、あるいは、山野の道かどこかでばったりと思う男に逢った女の驚きの歌であるとする見方もあります。さらには下2句を「だしぬけに抱きついてきたあなた、ああ」と解するものもあり、いかにも東歌らしい歌になってきます。

国引き神話
昔々、出雲の創造神である八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出来上がった出雲の国を見渡して「この国は、細長い布のように小さい国だ。どこかの国を縫いつけて大きくしよう」とお思いになった。海の向こうを見渡すと、新羅(しらぎ)という国に余った土地があった。そこで、大きな鋤(すき)を手に取って、大きな魚の身を裂くように、ぐさりと土地に打ち込んで土地を掘り起こして切り離した。そして三つ編みにした強い綱をかけて、「国来(くにこ)、国来」と言いながら力一杯引き寄せると、その土地は川船がそろりそろりと動くようにゆっくりと動いてきて出雲の国にくっついた。そうして合わさった国は、杵築(きづき)のみさき(出雲市小津町から日御碕まで)になった。その時に、引っ張った綱をかけた杭が佐比売山(さひめやま:現在の三瓶山)で、その綱は園の長浜になった。その後も、北方の国から同じように狭田(さだ)の国(小津から東の鹿島町佐陀まで)と、闇見(くらみ)の国(松江市島根町のあたり)を引っ張ってきてつなぎ、最後に北陸地方の高志(こし)の国から引っ張ってきた国が三穂の埼(松江市美保関町のあたり)になった。この時に引っ張った綱をかけた杭は伯耆の国の火の神岳(ひのかみたけ:現在の大山)で、引っ張った綱は夜見の島(弓ヶ浜)になった。
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『風土記』について
713年(和銅6年)5月、元明天皇は諸国の国司に、それぞれの国の「地名」「地名の由来」「地域の伝承」「動植物や鉱物資源」「土地の肥沃度」の調査を義務付けました。全国を統治するためには、各国のさまざまな状況を把握しておく必要があったからです。この命に従って各国が提出した調査報告書を編纂したのが『風土記』です。ところが、900年代前半にはすでに朝廷から散逸してしまったようで、現存するのは出雲・常陸・播磨・豊後・肥前の5国の『風土記』のみとなっています。特に733年に完成した『出雲国風土記』は、ほぼ完本の状態で残っており、出雲神話や地名が記載されています。
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