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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3414~3417

訓読

3414
伊香保(いかほ)ろの八尺(やさか)の堰塞(ゐで)に立つ虹(のじ)の現(あら)はろまでもさ寝(ね)をさ寝てば
3415
上(かみ)つ毛野(けの)伊香保(いかほ)の沼(ぬま)に植(う)ゑ小水葱(こなぎ)かく恋ひむとや種(たね)求めけむ
3416
上(かみ)つ毛野(けの)可保夜(かほや)が沼(ぬま)のいはゐつら引かばぬれつつ我(あ)をな絶えそね
3417
上(かみ)つ毛野(けの)伊奈良(いなら)の沼(ぬま)の大藺草(おほゐぐさ)外(よそ)に見しよは今こそまされ

意味

〈3414〉
 伊香保の八尺の堰(せき)に立つ虹のように、はっきり見えるくらいに明るくなるまで、一緒に共寝できたらなあ。
〈3415〉
 上野の伊香保の沼に植えてある小水葱。こんなに恋に苦しもうとして、わざわざ種を求めたわけでもないのに。
〈3416〉
 上野の可保夜が沼に生えるいわい葛(づら)のように、引き寄せたらほどけて私に寄り添い、決して私との仲を絶やさないでおくれ。
〈3417〉
 上野の伊奈良の沼に生える大藺草(おおいぐさ)ではないが、遠くから見ていた時より、我がものとした今の方が恋しさがまさる。

鑑賞

 上野(かみつけの)の国の歌。3414の「伊香保ろ」の「伊香保」は、群馬県のほぼ中央部に位置する榛名山、「ろ」は、親しみや調子を整える東歌特有の接尾語。ここは、榛名山というより、その山麓地帯。「八尺」は、大きい、長いこと。地名とする説もあります。「堰塞」は、水を堰き止めてあるところ。「虹(のじ)」は「虹(にじ)」の東語。虹は、中国の『詩経』では邪淫のものとされていたため、それが継承され、上代の人々にとっても忌み憚られるものだったようです。また、蛇神の顕現として畏怖の対象とされていたことから、ここでは、神的なものが目に見える形で現れ出ることを意味する「立つ」という言葉が使われています。「虹」を詠った歌は『万葉集』中ではこの1首のみです。上3句は、虹が鮮やかに現れるところから、「現はろ」を導く譬喩式序詞。「現はろ」は「あらわる」の東語。「まで」は、~ほどに、~くらいにの意を表す副助詞。上掲の解釈とは別に、「人目につくほどに」と解するものもあります。「さ寝をさ寝てば」の「さ」は接頭語で、寝るだけ寝られたならば。

 
3415の「伊香保の沼」は、榛名山上の榛名湖とされますが、湖面の標高が1084mもある上に、いろいろ条件が合わないとして、山麓の沼と見る説もあります。「植ゑ小水葱」は、植えてある小水葱。「小水葱」は、夏から初秋にかけて青紫色の小さな花を咲かせる水草のミズアオイの類で、ここは愛する女の譬え。「かく恋ひむとや」は、こんなに恋に苦しもうとして。「や」は、反語。「種求む」の「種」は原因の意で、「種求む」は共寝することの譬え。女と関係を結んだものの、そのために恋の悩みに苦しむことになったことを後悔している男の歌です。

 
3416の「可保夜が沼」は、所在未詳。「いはゐつら」は、岩に生える蔓草、あるいは水生植物のジュンサイやヒシ、またはミツガシワなどの説がありますが、水中に長く伸びる「蔓」のイメージが重要です。上3句は「引かばぬれつつ」を導く譬喩式序詞。「ぬれつつ」の「ぬる」は、ほどける。「我をな絶えそね」の「な~そ」は、懇願的な禁止で、私との仲を絶やさないでほしい。3378の歌と、地名は異なりますが、取材も作意も同じになっています。

 
3417は『柿本人麻呂歌集』に出ているとの注がある歌。「伊奈良の沼」は、所在未詳。「大藺草」は、カヤツリグサ科の多年草のフトイ。畳の表にするイグサよりも大きく、沼地に群生して高く伸びるのが特徴です。上3句は「外に見る」を導く譬喩式序詞。「外に見しよは」は、遠くから見ていた時より。「よ」は比較を示す格助詞。「今こそまされ」は、今のほうが(愛情が)勝っている。「こそ〜れ(已然形)」の係り結びで、実感を強く強調しています。
 


東歌について

犬養孝『万葉の旅・中』/平凡社から引用

 万葉集巻14に「東歌」として短歌のみ230首(他に或本歌・一本歌8首)がある。「あづま」の範囲は広くいえば不破・鈴鹿以東、東海・東山の諸国だが、巻14では国名のわかっているもの(90首)を、遠江以東の旧東海道諸国、信濃以東の旧東山道諸国にわけ、国名不明のもの(140首)を次に一括してあり、右の範囲外の土地のものも若干まざっている。一言でいえば「あづまうた」は東方諸国(東国)関係の歌といえよう。

 ほとんどが恋の歌で、作者は未詳。大部分は東国の庶民の間でうたわれた民謡ないし民謡的世界のものとみられるが、中には中央人の作も若干はいっているとみられる。これらの歌も、巻14の編纂をみるまでには、中央人による変改や加工も若干あることは考えておかなければならない。歌がいつごろのものかは明らかでないが、大要、第2期から第3期にかけてのころとみられる。

 巻14の編纂の時期について、もと東山道に属していた武蔵国を宝亀2年(771年)10月に東海道に編入したことから、巻14の配列では武蔵が東海道筋の相模と上総の間におかれていることに着目して、編纂は宝亀2年10月以後とする(山田孝雄博士説)。この説は動かしがたいが、その前にすでに編纂されていたものの改編とみられ、はじめの編纂の時期は明らかでない。

 編纂にいたる前の原資料としての東歌がどのようにして集められたかについては、こんにちまでのところ確定説はない。高橋虫麻呂や大伴家持その他中央の個人の採集を考える説、国庁の官人らの採集を考える説、東国の国々から朝貢とともに年を追うて宮廷に進上された歌が大歌所に記録されていたものとする説など諸説があるが、この解決は将来にのこされている。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。