| 訓読 |
3418
上(かみ)つ毛野(けの)佐野田(さのだ)の苗(なへ)の群苗(むらなへ)に事(こと)は定めつ今はいかにせも
3419
伊香保(いかほ)背(せ)よ汝(な)が泣かししも思(おも)ひ出(ど)ろ隈越(くまこそ)しつと忘れ為(せ)なふも
3420
上(かみ)つ毛野(けの)佐野(さの)の舟橋(ふなはし)取り離(はな)し親は放(さ)くれど我(わ)は離(さか)るがへ
| 意味 |
〈3418〉
上野の佐野の田の苗の、群苗でする占いで結婚相手を決めてしまったので、今さらどうにもなりません。
〈3419〉
伊香保に住むあなたよ、あなたが私のために泣いて下さったことを思い出します。道の隈をいくつも越えておいでになったことを、忘れようにも忘れられません。
〈3420〉
上野の佐野の舟橋を取りはずすように、親は私たちの仲を引き裂こうとするけれど、私は離れようか、離れはしない。
| 鑑賞 |
上野(かみつけの)の国の歌。3418の「佐野田」は、佐野の田。「佐野」は、現在の高崎市の東南一帯。「群苗」は一団の苗で、「占ひ=占(むら)なへ」を掛けたもの。あるいはそれぞれの田に割り当てた苗の意で、そうした苗のようにと、下の「定め」の譬喩と見る説もあります。「事は定めつ」は、結婚相手を決めてしまった。「今はいかにせも」の「せも」は「せむ」の東語で、今となってはどうしようもない、今さらどうしたらよいのだろう。
3419の「伊香保背よ」は、伊香保に住む我が夫よ。「泣かししを」は、あなたが泣いて下さったことを。「思ひ出ろ」は「思ひ出づる」の訛り。「隈越しつと」は、山路の隈をいくつも廻って来たことを。「隈」は、道の曲がり角。「忘れせなふも」の「なふ」は、打消の助動詞。ただ、この歌の「汝が泣かししも思ひ出ろ隈越しつと」の部分の原文「奈可中吹下 於毛此度路 久麻許曾之都等」は、訓義とも難解で、未だ定説を得ていません。
3420の「佐野の舟橋」について、『枕草子』第65段に「橋は」とある中に、当時有名だった橋の名が18列挙されており、その6番目に「佐野の舟橋」が出てきます。「舟橋」というのは、舟を何艘か横に並べ、その上に丸太や板を渡した橋のこと。その所在は、群馬県高崎市の烏川(からすがわ)流域または栃木県佐野市などとする説があります。「取り離し」は、舟橋の連結を解くこと。上3句は「放く」を導く譬喩式序詞。「親は放くれど」は、親は二人の間を裂くけれど。「我は離るがへ」の「がへ」は、反語を表す「かは」にあたる東国方言。私は離れようか、離れはしない。母親に恋人との交際をさしとめられた娘が詠んだものと見えますが、上3句を序詞ではなく実叙とすれば、女の許に通う男の歌とも取れます。いずれにせよ、二人の仲を裂こうとする障害が激しいほど、恋の情熱は燃えるのです。結びの「〜がへ」という方言的な響きには、理屈ではない、突き上げるような恋の執着が込められています。
なお、この佐野の舟橋について、次のような伝説があると言います。―― 昔、烏川を挟んで東の佐野に「朝日長者」、西の寺尾に「夕日長者」という二人の有力者がいた。朝日長者の娘と、夕日長者の息子は深く愛し合い、夜ごと「舟橋」を渡って密かに逢瀬を重ねていた。しかし、親たちは、二人の仲を快く思わず、何とかして仲を裂こうと考え、ある夜、こっそりと舟橋の真ん中の板を数枚取り外してしまった。その夜、何も知らない二人は暗闇の中をいつものように橋を渡ろうとし、足を踏み外して急流に飲み込まれてしまう。翌朝、川の淵で固く抱き合ったまま亡くなっている二人が発見された。その後、夜な夜な橋のあたりに怪しい火(魂火)が現れるようになり、人々を恐れさせた。村人たちは二人を哀れに思い、供養のために歌碑や観音像(船木観音)を建てたという。

東歌の作者
『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。全体が恋の歌であり、素朴で親しみやすい歌が多いことなどから、かつてこれらの歌は東国の民衆の生の声と見られていましたが、現在では疑問が持たれています。
そもそも土地に密着したものであれば、民謡的要素に富む歌が多かったはずで、形式も多用な歌があったはずなのに、そうした歌は1首も採られていません。『万葉集』の東歌はすべての歌が完全な短歌形式(5・7・5・7・7)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。
従って、もともとの作者は土着の豪族階級の人たちで、都の官人たちが歌を作っているのを模倣した、また彼らから手ほどきを受けたのが始まりだろうとされます。すなわち、郡司となった豪族たちと、中央から派遣された国司らとの交流の中で作られ、それらを中央に持ち帰ったのが東歌だと考えられています。
なお、「都」と「鄙」という言葉があり、「都」は「宮処」すなわち皇宮の置かれる場所であり、畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)を指します。「鄙」は畿外を意味しましたが、東国は含まれていません。『万葉集』でも東国は決して「鄙」とは呼ばれておらず、東国すなわち「東(あづま)」は、「都・鄙」の秩序から除外された、いわば第三の地域として認識されていたのです。東歌が特立した巻として存在する理由はそこにあります。
【PR】
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |