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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3446~3450

訓読

3446
妹(いも)なろが使(つか)ふ川津(かはづ)のささら荻(をぎ)葦(あし)と人言(ひとごと)語(かた)りよらしも
3447
草蔭(くさかげ)の安努(あの)な行かむと墾(は)りし道(みち)安努は行かずて荒草(あらくさ)立(だ)ちぬ
3448
花散(はなぢ)らふこの向(むか)つ峰(を)の乎那(をな)の峰(を)の洲(ひじ)につくまで君が代(よ)もがも
3449
白栲(しろたへ)の衣(ころも)の袖(そで)を麻久良我(まくらが)よ海人(あま)漕ぎ来(く)見(み)ゆ波立つなゆめ
3450
乎久佐壮丁(をくさを)と乎具佐助丁(をぐさずけを)と潮舟(しほふね)の並(なら)べて見れば乎具佐(をぐさ)勝ちめり

意味

〈3446〉
 あの子が使う川の渡し場に茂る、気持ちのよいささら萩なのに、世間の人々は、それは葦、悪い奴だと、調子に乗って言っているようだ。
〈3447〉
 安努へ通じさせようと、新たに切り開いた道なのに、誰も安努に行かないものだから、雑草で荒れ放題になっている。
〈3448〉
 花が散り続けている向かいの峰の乎那の山が摩滅して、砂州になり水に漬かるようになるまで、あなたに生きていてほしい。
〈3449〉
 衣の袖を枕にするという麻久良我の方から、海人が舟を漕いでくるのが見える。波よ、立つな、決して。
〈3450〉
 乎久佐の壮丁と乎具佐の助丁とを、潮舟のように二人並べて見ると、乎具佐のほうが勝っているようだ。

鑑賞

 3446の「妹なろ」の「なろ」はここにだけ見える語で、「な」は「背な」などのそれで、愛称としての接尾語。「ろ」は、「児ろ」のそれと同じと見られます。「使ふ川津の」の「使ふ」は、日常的に水汲みや洗濯などで利用する。「川津」は、川の渡し場、あるいは水辺の作業場。「ささら萩」は、小さな萩で、その萩が葦に似ていることから、同音の「悪し」を掛けています。「人言」は、世間の評判。「語り寄らしも」は、集まっては噂しているらしい。「も」は、詠嘆の終助詞。「語り宜(よろ)しも」(言ってもかまわない)とも解し得ます。一方、葦が「悪し」を導くのではなく葦そのものであり、あの子が使う川の渡し場に細かい萩が生えている。いや萩ではなくしっかり者の葦さ、と人々は言っているようだ、のように解する説もあります。

 3447の「草蔭の」は「安努」の枕詞(掛かり方は未詳)。「安努な行かむと」の「安努」は、所在未詳。「な」は、「へ」の意の東語。「行かむと」は、行こうと思って。「墾りし道」は、新たに切り開いた道。「安努は行かずて」は、安努には行かないので、あるいは安努へは通じていないので。「荒草立ちぬ」の「荒草」は、荒地に生える雑草。「立ちぬ」の「ぬ」は、完了の助動詞。せっかく拓いた道が草に埋もれてしまった様子を指します。「放置された愛」の悲哀を、荒廃した道のイメージで鮮烈に描き出している歌です。

 3448の「花散らふ」の「ふ」は、継続。「向つ峰」は、向かいの峰。「乎那の峰」は所在未詳ながら、浜名湖北西の山とみる説があります。「洲」は、海中の洲。「君が代もがも」の「君が代」は、あなたの寿命、あなたの命。「もがも」は、願望。峰が平らになり、さらに海の洲となるまで、と、君の永い齢を祝っている歌です。いわゆる賀歌であり、殆どが恋の歌である「東歌」の中では異色の存在となっています。酒宴の場で、国守クラスの主賓に献じた歌でしょうか。ただ、賀歌ならば、「花散らふ」というのは縁起がよくないのではないかとの疑問が残ります。散る花を惜しむ歌は『万葉集』にも散見されます。しかし、柿本人麻呂の吉野賛歌(巻第1-36)に「花散るらふ秋津の野辺に」とあり、「秋津」という地名に、誉め詞としてかかる枕詞のように用いられていて、現代とは違った感覚もあったことを思わされます。花が散るのは命の終わりを意味するのではなく、結実へ向けての進展であり、だから、むしろ縁起がよいことなのだ、というような判断があったのではないでしょうか。

 3449の「白栲の」は、楮(こうぞ)などの樹皮の繊維で織った白い布のことで、「衣」にかかる枕詞。「衣の袖を」までの2句は、袖を「枕く(枕にする)と次の「麻久良我」の「まくら」を掛けた掛詞式序詞。「麻久良我よ」の「麻久良我」は所在未詳ながら、現在の茨城県古河市から埼玉県北辺にかけての利根川流域の地名と見る説があります。「よ」は、~より。「海人」は、漁師。「漕ぎ来見ゆ」は、こちらへ漕いで来るのが見える。「波立つなゆめ」の「ゆめ」は、強い禁止・否定の副詞。決して、必ず。窪田空穂は、「水上を漕いで来る海人の舟を望んでその平安を祈った心の歌で、善意ある、明るい心のものである」と述べています。

 3450の「乎久佐壮丁」は乎久佐の地の壮丁、「乎具佐助丁」は乎具佐の地の助丁で、「乎久佐」「乎具佐」の所在未詳ながら、現在の千葉県市原市付近の地名とする説があります。「壮丁」は21歳以上、「助丁」は20歳以下の男子の称であることが、防人の歌で知られます。「潮舟の」の「潮舟」は、川舟に対して海を漕ぎ渡る舟で、「並べ」の枕詞。「比べて」ではなく「並べて見れば」は、二人を並べて比較してみると。「勝ちめり」の「めり」は、視覚的な根拠に基づく推定の助動詞。女が若い男二人の優劣を定めようとし、より若い方を勝っていると言っている歌であるようです。
 


東を「あづま」と読む理由

 ヤマトタケルノミコトは、『日本書紀』では主に「日本武尊」と表記され、『古事記』では主に「倭建命」と表記されます。そのヤマトタケルノミコトが、関東地方の敵を平定するため、相模から船に乗って房総半島に向かったときに、暴風に襲われました。

 激しい波にいよいよ船が危うくなったとき、妃のオトタチバナヒメが、「私が海に入って海の神を鎮めましょう。あなたは必ず任務を果してください」と言って、海中に身を投げました。

 そのとき妃は「さねさし さがみの小野にもゆる火の 火中(ほなか)にたちて 問ひし君はも」という歌を残していきました。これは「焼津で火攻めに遭ったとき、その火の中で、あなたは私を心配してかばってくださった。その面影を抱いて、私は海に入ります」という意味です。

 そうして波は収まり、その後、ヤマトタケルノミコトは首尾よく敵を平らげ、足柄山にもどってきました。そして、そこから相模湾を見下ろし、海に沈んだオトタチバナヒメを偲んで、「吾妻(あづま)はや」(わが妻よ)と三度呼びかけました。それで関東地方(東国)のことを「あづま」と呼ぶようになったといわれます。 

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窪田空穂と『万葉集』

 歌人であり国文学者でもあった窪田空穂(くぼたうつぼ:1877〜1967年)にとって、『万葉集』の研究は生涯をかけた一大事業であり、彼の短歌論の精神的支柱でした。賀茂真淵をはじめとする江戸期の国学者が「古道」や「精神の復古」を重視したのに対し、空穂の万葉研究は「一人の歌人としての共感」と「近代的・人間心理的なアプローチ」に大きな特徴があります。

  1. 記念碑的業績『万葉集評釈』
     空穂の万葉研究の集大成が、全12巻(索引含め13冊)に及ぶ巨著『万葉集評釈』です(当サイトでもっとも多く引用している文献です)。それまでの万葉集の注釈書(仙覚の『万葉集抄』、真淵の『万葉考』、鹿持雅澄の『万葉集古義』など)の成果を踏まえつつも、空穂は独自の視点を貫きました。単なる言葉の歴史的解釈(語釈)にとどまらず、「その歌が詠まれた時、作者の心はどう動いていたのか」という作者の心理や感情のダイナミズムを、緻密かつ平易な現代語で解き明かしたのです。歌人としての鋭い感性をもって一首一首の「調べ」や「息遣い」を追体験するようなその評釈は、今なお万葉集研究・鑑賞の最高峰の一つとして高く評価されています。
  2. 『万葉集』に見た「人間性の真実」
     空穂は『万葉集』の魅力を、技巧の洗練ではなく「むき出しの人間性」に見出しました。空穂は、後世の和歌(古金・新古今など)が「理知」や「ことばの遊芸」に傾斜していったのに対し、万葉の歌は「情感」そのものが結晶化したものであると捉えました。天皇や貴族の歌だけでなく、防人や東国の庶民が詠んだ歌(東歌・防人歌)に、人間の生々しい生活の哀歓や、飾らない愛情がそのまま表現されていることに深く共感しました。彼は「歌とは、生活のなかで心が動かされたときに自然と湧き出るもの(生活詠)」という信念を持っており、その理想の姿を万葉の歌人たちに重ね合わせていたのです。
  3. 実作への反映~独自の「写実」と「生活」
     空穂は、正岡子規や斎藤茂吉らの「アララギ」とは異なる独自の写実主義(『国民文学』を主宰)を歩みましたが、その根底にはやはり万葉精神が流れていました。アララギ派が「万葉集の言葉や調べ(写生)」を直接的に模倣する傾向があったのに対し、空穂は万葉の「精神(人間や自然に対する、直截で嘘のない眼差し)」を現代の日常に活かそうとしました。彼の代表歌である、若くして先立たれた妻を悼む一連の「愛子(かなしご)のうた」などに見られる深い人間愛と哀傷は、万葉の相聞歌や挽歌(特に山部赤人や山上憶良、あるいは大伴家持らが見せた、他者や家族への深い慈しみ)に通じるものがあります。
     空穂の評釈を読めば、1200年以上前の万葉人が、現代の私たちと全く変わらないことで悩み、恋し、涙していたことが鮮やかに伝わってきます。彼は、難解な『万葉集』を「学問の書」から「血の通った人間の告白録」へと開き直した、最大の功労者と言えます。
古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。