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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3451~3455

訓読

3451
左奈都良(さなつら)の岡に粟(あは)蒔(ま)き愛(かな)しきが駒(こま)は食(た)ぐとも我(わ)はそと追(も)はじ
3452
おもしろき野をばな焼きそ古草(ふるくさ)に新草(にひくさ)交(まじ)り生(お)ひは生(お)ふるがに
3453
風の音(と)の遠き我妹(わぎも)が着せし衣(きぬ)手本(たもと)のくだりまよひ来(き)にけり
3454
庭に立つ麻手小衾(あさでこぶすま)今夜(こよひ)だに夫(つま)寄しこせね麻手小衾
3455
恋(こひ)しけば来ませ我が背子(せこ)垣(かき)つ柳(やぎ)末(うれ)摘(つ)み枯らし我(わ)れ立ち待たむ

意味

〈3451〉
 左奈都良の岡に粟を蒔いて育てているけれど、愛しい人の馬が来て、実った粟を食べたとしても、私は「しっ」と言って追い立てたりはしません。
〈3452〉
 この愉快な野を焼かないでおくれ。冬枯れの古草に春の新草が混じって、生えるだけ生えるように。
〈3453〉
 遠くに住む妻が着せてくれた、着物の袖口のあたりがほつれてきてしまった。
〈3454〉
 庭に植えた麻で作った夜着よ、せめて今夜だけでも夫を呼び寄せてください、この麻の夜着よ。
〈3455〉
 私が恋しいと言うのなら、いらして下さい、あなた。垣根の柳の枝先を枯れてしまうほど摘みながら、立ち続けてお待ちしています。

鑑賞

 3451の「左奈都良の岡」は地名とされますが、所在未詳。「愛しきが駒は」の「愛しき」は、愛しい人で名詞形で、愛しい人の馬が。「食ぐとも」は、その馬が食べようとも。「そと追はじ」の「そ」は、馬を追い払う声。今でいえば「しっ」。「そともはじ」は「そとも追はじ」の転。なおこの歌の解釈には異説もあり、人ではなく馬への愛着を示しているのではないかとするものや、「追わない(=そともはじ)」のは、もう諦めてしまった、それ以上求めないといった心の線引きを示す意味ではないかとするものがあります。

 3452の「おもしろき」は、趣きのある。「野をばな焼きそ」の「ば」は強意の助詞、「な~そ」は禁止で、野を焼かないでくれ。「古草」は、去年から残っている枯れ草。「新草」は、春に新しく芽吹く若草。「生ひば生ふるがに」の「がに」は「がね」が訛った語で、~となるように。生えようとすれば生えることができるように。春の野焼きを目にしながら、生命の連続性への強い愛着が詠まれた歌ですが、男女のカップルが次々にできることを形容したものとの見方があり、「古草」「新草」は恋人たちの暗喩とも。

 3453の「風の音の」の「音(と)」は「おと」の略で、「遠き」の枕詞。「着せし衣」は、(旅立つ時に)妻が着せてくれた衣。「手本のくだり」は、袖のあたり。「まよひ」は、ほつれる意。京の官人が東国で詠んだ歌、あるいは防人として筑紫に赴いた人の歌と見られます。窪田空穂は、「旅に久しくいる男が、着ている衣の腕のあたりのほつれに目を着けて、その衣を着せた妻を思った心である。妻を思う心が中心とはなっているが、広い意味での旅愁をしみじみと感じ、感傷を抑えていっているもので、こもった味わいのある歌である。『風の音の』という枕詞もよく利いている」と評しています。

 3454の「庭に立つ」は、庭に植えてある麻の意から「麻」にかかる枕詞。「麻手小衾」の「麻手」は、麻の織物の称。「小衾」の「小」は美称で、掛け布団のこと。ここは麻で編んだ掛け布団に呼びかけているもの。「今夜だに」の「だに」は最小限の希望を表す副詞で、今夜だけでも。「夫寄しこせね」は、夫を引き寄せておくれ。「こせ」は願望の助動詞「こす」の命令形。「ね」は同じく願望の終助詞。幾夜も夫を待って待ち得なかった女の歌で、庭に生えている麻を眺めながら、その麻で織った布団、そしてその布団に共に寝るはずの夫へと、作者の思考が強く結びついています。結句の「麻手小衾」の繰り返しには、切迫した思いが感じられます。

 3455の「恋しけ」は、形容詞の「恋し」の未然形。「ば」は、仮定条件。もし~ならば。「来ませ」の「ませ」は、尊敬の助動詞「ます」の命令形。いらして下さい。「垣つ柳」の「つ」は、~の、~にある意の格助詞で、垣根の柳。「末摘み枯らし」の「末」は、草木の枝や葉の先。「摘み枯らし」は、摘み取って枯らしてしまうほど。枝先を摘むのは、忍んで通ってくる男が垣を越えやすくするため、垣の外から男が来るのを見やすくするためなどの説がありますが、長い時間を待つ間の所在なさからの仕草と見るのが適当でしょう。芽吹いたばかりの柳の新芽を、じれったそうに次々と摘んでは捨てている、乙女のほのぼのとした情景が浮かんでくるようです。
 


『万葉集』は国民歌集か?

 『万葉集』の時代は130年もの長きにわたり、しかも激動の時代であって、多様な歌が生まれました。収録歌数は4500余首にも及び、歌の作者も、天皇・皇后から貴族・下級官吏・農民や乞食人・遊芸人にもわたり、さらに防人の歌もあるところから、まさに「国民歌集」であり、その幅広さが万葉の歌をより多彩にし、その後の歌集に見られない多様性と混沌とした力を有しているとされてきました。

 しかしながら、こうした捉え方には現代の研究者は否定的であり、むしろ、神のふるまいである「遊び」を体現しようとする宮廷貴族の美意識の、「みやび」を中心に表現しようとした歌集であるとの考えが一般的になっています。この問題の研究者である東京大学の品田悦一教授によると、前掲のような捉え方の源流は明治時代の後半に著された文学史の文献にあり、それ以来まったく変わることなく受け継がれているといいます。ナショナリズムや『万葉集』を重視した歌人の集まりであるアララギ派などの言説が大きく関わっているといい、それ以前は、一般の人々にとって『万葉集』は縁もゆかりもない存在だったのです。したがって、品田教授は、『万葉集』は広く読まれたために国民歌集になったのではなく、逆にあらかじめ国民歌集という価値を与えられたから広く愛好され読まれるようになったのだと延べ、私たちに大いなる反省を促しています。

 『万葉集』の歌には、東歌(あずまうた)と防人歌を除けば、方言や俗語を含む歌がほとんどなく、形も整っているところから、貴族と役人およびその周辺の人々、いわゆる都人を中心に詠まれたことが窺えます。庶民の歌はほぼありません。また、天皇代ごとに歌を区分する編年式配列が用いられていることから、『万葉集』の原形は、歌による宮廷史であったとする見方もあります。東歌や防人歌が、地方の歌、庶民の歌として選ばれ、類を見ない歌群となってはいるものの、東歌については、その作者はおもに豪族層とされ、また、すべての歌が完全な短歌形式であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられるなど、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。また、東歌を集めた巻第14があえて独立しているのも、朝廷の威力が東国にまで及んでいることを示すためだったとされます。防人歌については、防人制度の円滑な運用に向けた参考資料とするため、防人たちの心情を伝える記録として収集されたようですが、こちらも東歌と同様の理由で、役人の手が加わった可能性が高いと見られています。 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。