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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3456~3460

訓読

3456
うつせみの八十言(やそこと)のへは繁(しげ)くとも争ひかねて我(あ)を言(こと)なすな
3457
うち日さす宮の我が背は大和女(やまとめ)の膝(ひざ)枕(ま)くごとに我(あ)を忘らすな
3458
汝背(なせ)の子や等里(とり)の岡道(をかち)し中(なか)だ折(を)れ我(あ)を音(ね)し泣くよ息(いく)づくまでに
3459
稲つけば皹(かか)る我(あ)が手を今夜(こよひ)もか殿(との)の若子(わくご)が取りて嘆かむ
3460
誰(た)れぞこの屋の戸(と)押(お)そぶる新嘗(にふなみ)に我(わ)が背(せ)を遣(や)りて斎(いは)ふこの戸を

意味

〈3456〉
 世間の噂は激しいでしょうが、それに負けて、私のことは口に出さないでください。
〈3457〉
 宮に仕える愛しいあなたは、大和の女の膝を枕にすることもありましょう。でも私のことは決して忘れないでください。
〈3458〉
 私のいとしい人よ、等里の岡道が途中で折れ曲がってすぐにお姿が見えなくなるので、私を声をあげて泣かせます、息苦しいほどに。
〈3459〉
 稲をついて赤くひび割れた私の手を、今夜には、お屋敷の若様がお取りになって、かわいそうにとお嘆きになるのでしょうか。
〈3460〉
 いったい誰なの、この家の戸をがたがた押し揺さぶるのは。新嘗祭を迎えて夫を遠ざけ、家内で身を清めているこの戸を。

鑑賞

 3456の「うつせみ」は、この世に生きている人間、世間。「八十言のへ」の「八十」は、数の多いこと。「言のへ」は「言の葉」の意、あるいは下への続きから「重」の意とする説があります。「繁くとも」は、どんなに多くとも。「争ひかねて」は、抵抗しきれなくなって。「我を言なすな」は、私のことを口にはしないでください。女が男に対し、たとえどんなに噂が多かろうとも、私たちの関係を口外するなと戒めたもので、類想の多い歌です。窪田空穂はこの歌について、「『うつせみの八十言のへ』は改まった語つづきであるが、一首の調べが沈静で、それを調和あるものとしている。東歌の匂いのない歌であるが、夫婦関係の秘密を保つことは信仰的なものであったから、こうした性質の歌は、京と地方との差別がなかったろうとも思われる」と述べています。

 3457の「うち日さす」は、日が射す意で「宮」にかかる枕詞。「宮の我が背」は、皇居で宮仕えする夫。「大和女」は、都のある大和に住む女。「膝枕くごとに」は、膝を枕に寝る度に。「膝枕く」は、女と親しく添い寝する様子を意味します。「我を忘らすな」の「忘らす」は「忘る」の敬語。「な」は、禁止の終助詞。夫が運脚か衛士として召され都へ出かけていく時の別れの歌です。一定期間の奉仕であるため、「大和の女を抱くのは仕方ないけれど・・・」と、半ばあきらめきった気持ちを吐露しています。都への憧憬と、それゆえに募る「東国の女」としての強い劣等感と独占欲が入り混じっている歌です。

 3458の「汝背」は、夫を親愛の情をもって呼ぶ称。さらに親しみを込めて「子」を添えています。「等里」は所在未詳ながら、現在の茨城県古河市付近にあった地名とする説があります。「岡道し」の「岡道」は、丘陵地を通る道。「し」は、強意の副助詞。「中だ折れ」の「中だ」は、中間で、中途での意。途中で折れ曲がって。「我を音し泣くよ」は、私を声を上げて泣かせることよ。「息づくまでに」は、息苦しいほどに。男が今までとはちがって、足遠にしようとするのに対して、女が訴えた歌とされます。

 3459の「稲つけば」は、籾殻を除くために籾を臼でつくことで、当時は食物の貯蔵が難しかったために、一食ごとにこの作業を行っていました。これをするのは女と定まっていて、身分ある人の家では下卑が行っていました。「皹る」は、アカギレが切れること。「今夜もか」の「も」は、感動の助詞。「殿の若子」は、お屋敷の若様。「取りて嘆かむ」は、(私の手を)取って、いたわって(悲しんで)くれるだろう。下働きの娘と若様の、人目を忍ぶ身分違いの恋の歌ですが、実際の個人の歌というより、作業する女たちの労働歌だったとみられています。斎藤茂吉は、「この歌には、身分のいい青年に接近している若い農小婦の純粋なつつましい語気が聞かれるので、それで吾々は感にたえぬ程になるのだが、とく味わえばやはり一般民謡の特質に触れるのである。併しこれだけの民謡を生んだのは、まさに世界一流の民謡国だという証拠である」と言っています。

 当時の地方は、中央から派遣された国司(守のほか介・掾・目)によって一国が経営されましたが、実際に庶民と接するのは当地の有力者から任命される郡司でした。郡の役所である郡家(ぐうけ)には、長官の大領の下に少領・主政・主典がいて、各村の里長をとおして村人たちを統括していました。東歌に見られる「殿」や「殿の若子」というのは、この郡家の役人やその子供をさすものとみられています。そうした若様と村の娘との間に実際に恋が成立するのは、かなり難しいことであったでしょう。

 そうしたことから、この歌は全くの虚構、空想であって、支配・被支配の関係の中でこの娘を捉え、その労働環境の厳しさ、貧しさ、悲惨さが窺い知れることを強調する捉え方がありますが、はたして如何なものでしょう。そういうのはあくまで第三者的な見方であり、比較の対象があってのものです。村の生活そのものが全てであった人々にとっては、稲つきの労働も水汲みの仕事も、布を織ったり晒したりすることも、日常のごく当たり前の営みだったはずです。東国には東国の精神生活があったのであり、そうした環境の中に東国の人をおいてみれば、浮かんでくるのは、あくまで健康な村娘の歌声であり、賑やかな笑い声なのではないでしょうか。

 3460の「誰ぞこの屋の」は、誰なの、この家の。「押そぶる」は、戸を押し揺さぶる。「新嘗に」は、新嘗の祭りに。「にふなみ」は「にひなへ」の訛り。「斎ふ」は、身を潔斎している。五穀豊穣を祈り、神に秋の初穂を捧げる新嘗の夜の歌で、神を迎える巫女の役目を、民家では主婦が担いました。巫女は独身でなければならないため、夫を外へ出して独身を装います。この夜は夫の不在が明らかなので、日ごろ目をつけていた人妻に言い寄ろうとする不届きな男が、チャンスとばかりに忍び込もうとするのです。冒頭「誰れぞ」で句割れとし、以下を倒置した大胆な句構えが、さながら劇中のセリフのような緊迫感を生み出しています。

 しかし、新嘗の祭りの日のこのタブーは厳しくて、この歌のようなことはまず現実にはありえなかっただろう、というのが一般的な見方です。折口信夫は、「信仰と現実生活の矛盾を詠んだもの。勿論、信仰衰へた時代には、さうした忍び男も出たであらうが、まづ、かうしたことは空想であらう。切実な恋愛を考へた、一種の戯曲的な歌と見てよからう」と述べています。なお、東歌の中にはもう1首この新嘗の祭りの歌があり(3386)、そこでも夫が家を出されたことが歌われています。
 


新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)

 宮中で行われる祭祀の一つで、農業国の宗教的首長としての天皇が、その年に収穫された新穀を天神・地祇にに供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式のこと。古くからの行事であり、『日本書紀』の中にも何度も記されています。現在の「勤労感謝の日」(11月23日)は、昭和23年7月の「国民の祝日に関する法律」公布以前は「新嘗祭」と呼ばれていました。

 ただし、上掲の歌でうたわれている新嘗祭は、こうした宮廷行事とは無関係で、東国農民の間で行われていた民間行事としての新嘗の祭りです。具体的にどのようなことが行われていたのかの詳細は不明ですが、男性は家の外に出され、女性だけが残って神をもてなす儀式を行ったようです。 

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いはふ(斎ふ)

 イハフは、願いの実現を意図して行う呪的行為(呪術、おまじない)をいう。ただし他に危害を与えるなど、好ましくない願いは見られない。語源的には、神聖・禁忌を意味する接頭語イにハフが付いたものと考えられる。

 同じくイに関わる動詞にイム(忌む)があるが、イハフが願いの実現を意図して何かを行うのに対して、イムは逆に凶事を恐れて何かを行わないことを意味する点が異なる。イハフが主として積極的行動であるのに対し、禁忌を侵さず、穢れを避け、身を慎むことをいう。

 ただし、次の歌を見ると、イムとイハフが重なり合う語であることもわかる。「櫛も見じ屋内も掃かじ草枕旅行く君を斎ふと思ひて」(巻第19-4263)。妻の立場から入唐使へ贈った壮行歌で、「櫛を見ることもしない、家の中も掃かない、旅行くあなたを『いはふ』と思って」くらいの意である。この歌では髪を梳かさない、家の中を掃かないことが旅人の無事をイハフこととされている。旅立ちの状態をそのまま保つことで旅人の無事の帰還を願うのだが、それが状態を変えることを禁忌とする意識と裏腹である点が注目される。また、神社などの神聖・清浄を保つことをイハフと言った例もみられる。

~『万葉語誌』から抜粋引用

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