| 訓読 |
3461
何(あぜ)といへかさ寝(ね)に逢はなくに真日(まひ)暮れて宵(よひ)なは来(こ)なに明けぬ時(しだ)来(く)る
3462
あしひきの山沢人(やまさはびと)の人さはにまなと言ふ子があやに愛(かな)しさ
3463
ま遠くの野にも逢はなむ心なく里の真中(みなか)に逢へる背(せ)なかも
3464
人言(ひとごと)の繁(しげ)きによりて真小薦(まをごも)の同(おや)じ枕は我(わ)はまかじやも
3465
高麗錦(こまにしき)紐(ひも)解き放(さ)けて寝(ぬ)るがへに何(あ)どせろとかもあやに愛(かな)しき
| 意味 |
〈3461〉
何ということよ、逢って共寝もせず、日が暮れた夕方には来ないで、夜が明けた時分に来るなんて。
〈3462〉
山沢の人たちの多くが手出しをしてはいけないというあの娘が、むしょうに愛しくてならない。
〈3463〉
遠く離れた野ででも逢ってくださればいいのに、思慮もなく、こんな里のど真ん中で逢って下さるのですね、あなたは。
〈3464〉
人の噂が激しいからといって、薦の一つ枕を、どうして使わないなんてことがあろうか。
〈3465〉
華麗な高麗錦の紐を解き放って共寝をしたけれど、この上どうしろというのだ。無性に可愛いくてたまらない。
| 鑑賞 |
3461の「何(あぜ)といへか」の「あぜと」は「何と」の東語で、どうして、なぜ。「さ寝」の「さ」は、接頭語。「逢はなくに」は、逢わないことだ。「真日」の「真」は、接頭語。「宵なは」の「な」は、接尾語。「来なに」の「な」は、打消の助動詞「ず」の東語。「時(しだ)」は、時の古語。共寝のできない朝方になって、申し訳程度に顔を出した男に激しく怒りをぶつけている女の歌です。男としては、浮気相手の家からの帰り道、罪の意識にさいなまれての行動でしょうか。
3462の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山沢人」は、山沢に住んでいる人。上2句は、同音反復で「人さは」を導く序詞。「人さはに」は、多くの人が。「さはに」は、数多いさま、たくさんの意の副詞。「まな」の解釈は、上掲のような「いけない」という禁止・制止の意ではなく、「愛子(まなご)」のように可愛い子とする説もあり、それによれば「多くの人が、可愛いといっている女」という、全く違う解釈になります。「あやに」は、無性に。
3463の「ま遠く」の「ま」は、接頭語。「野にも逢はなむ」は、の「なむ」は、未然形に接して、願望をあらわす助詞。人目のないどこか遠い野ででも逢ってほしいのに。「心なく」は、思慮もなく、思いやりもなく。「里」は、人里。「背な」の「な」は、接尾語。なかなか思うように逢えない、また人目を忍ぶ仲であるらしく、里の中で偶然に行き合ったのでしょうが、いかにも男がわざと里中で逢ったというように拗ねています。
3464の「人言」は、世間の人々の噂。「繁きによりて」は、激しいからといって。「真小薦の」の「真」も「小」も接頭語で、薦の。薦は、川や湖沼の浅瀬に群生するイネ科の大形の多年草で、庶民の枕の材料となりました。「同じ枕」は、一つの枕のことで、長い枕を男女が一つに使って共寝したもの。「まかじやも」の「じ」は打消の意志、「やも」は反語で、(同じ枕を)共にしないことがあろうか。激しい世間の噂に気を揉んでいる女に対し、強い決意と情熱を示した男の歌です。
3465の「高麗錦」は、高麗(高句麗:朝鮮半島市北部)から渡来した錦で、錦は、金銀等の糸で模様を織り出した厚地の織物。衣の紐としたことから「紐」の枕詞。「紐解く」は、下着の紐を解いて男女が共寝をする意。「放く」は、放つ。「何どせろ」は「何とせよ」の東語で、どうしろというのか。「かも」は、疑問。「あやに」は、無性に、不思議なほど。腕の中にいる娘への激しい愛情を表現した歌ですが、高麗錦は在来の技術では作れない貴重品であるため、東国でこのような高級品を知っていた、あるいは持っていたのは、一握りの豪族層であったと考えられます。それとも、恋を理想化した表現だったのかもしれません。ただし、武蔵国に高麗郡があり、これは霊亀2年(716年)に駿河以東7か国の高麗人1799人を移住させたことが知られます。高麗錦は高麗から渡来したと上述しましたが、上代の東国においてこれらの帰化した人々によって作られたものであるとも想像できます。

「東歌」の作者
『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。全体が恋の歌であり、素朴で親しみやすい歌が多いことなどから、かつてこれらの歌は東国の民衆の生の声と見られていましたが、現在では疑問が持たれています。
そもそも土地に密着したものであれば、民謡的要素に富む歌が多かったはずで、形式も多用な歌があったはずなのに、そうした歌は1首も採られていません。『万葉集』の東歌はすべての歌が完全な短歌形式(5・7・5・7・7)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、民謡そのものでなく、中央側が何らかの手を加えた歌、あえていえば民謡らしさを残した歌として収録されたものと見られています。
従って、もともとの作者は土着の豪族階級の人たちで、都の官人たちが歌を作っているのを模倣した、また彼らから手ほどきを受けたのが始まりだろうとされます。すなわち、郡司となった豪族たちと、中央から派遣された国司らとの交流の中で作られ、それらを中央に持ち帰ったのが東歌だと考えられています。
なお、「都」と「鄙」という言葉があり、「都」は「宮処」すなわち皇宮の置かれる場所であり、畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)を指します。「鄙」は畿外を意味しましたが、東国は含まれていません。『万葉集』でも東国は決して「鄙」とは呼ばれておらず、東国すなわち「東(あづま)」は、「都・鄙」の秩序から除外された、いわば第三の地域として認識されていたのです。東歌が特立した巻として存在する理由はそこにあります。
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移民と東国社会
7世紀末から8世紀初頭にかけての時期は、『日本書紀』や『続日本紀』によると、朝鮮半島から渡ってきた人々を何度も東国へ集団移住させていた。7世紀後半における朝鮮半島での動乱の結果、集団で逃れてきた人々に対して、政府は東国の地を集団移住先としたのであった。この結果、東国のなかには、新羅人の村や、高句麗人の村がいくつか出現した。現在まで地名が残り、よく知られるものとしては、武蔵国の多摩郡狛江(こまえ)郷や同国高麗(こま)郡があり、そこは高句麗出身者の村があったところである。また武蔵国新座(にいくら)郡は新羅出身者の村があったことにちなんだ地名である。下野国では、新羅系土器が出土している集落遺跡もある。
当然のことながら、こうした集団移住によって成立した村の人々と、既存の村の人々や豪族たちとの交流は盛んになっていったと推測される。7世紀末から8世紀初頭にかけて、都から離れた東国の社会で、急激に「国際化」が始まったのである。集団移住の記録を調べると、中国からの移住はなく、新羅からの移住が多い。
(中略)じつは、東国には、これよりもさらに古く、大陸からの移住者を配した痕跡がある。4世紀における高句麗との戦争ののち、日本列島に馬がみられるようになるが、これは高句麗の騎馬隊に苦戦した経験から、自国にも騎馬隊を導入しようとしたためとみられる。そのために、倭は、馬を飼育する技術をもった人々を、朝鮮半島から列島内に移住させた。
8世紀初頭になると、馬の飼育に適した地として、甲斐・信濃・上野の3か国に、天皇に供する馬を飼育するための御牧(みまき)が設置される。いずれも東国であるが、これはそれ以前から馬産の伝統をふまえたものであった。(中略)甲斐国巨摩(こま)郡には牧が多いが、巨摩(高麗)の地名は高句麗系渡来人に由来する。
東国はこうした伝統をもつ地方としてみられていた。7世紀後半における朝鮮半島からの東国への移住も、馬の飼育開始以来の渡来者移住先として考えられていたためかもしれない。
~『律令国家と万葉びと』から抜粋引用
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