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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3476~3480

訓読

3476
うべ子なは我(わ)ぬに恋(こ)ふなも立(た)と月のぬがなへ行けば恋しかるなも
[或本の歌の下の句には、ぬがな行けどわぬがゆのへは]
3477
東道(あづまぢ)の手児(てご)の呼坂(よびさか)越えて去(い)なば我(あ)れは恋(こ)ひむな後は逢ひぬとも
3478
遠しとふ故奈(こな)の白嶺(しらね)に逢(あ)ほしだも逢はのへしだも汝(な)にこそ寄(よ)され
3479
安可見山(あかみやま)草根(くさね)刈り除(そ)け逢はすがへ争ふ妹(いも)しあやにかなしも
3480
大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み愛(かな)し妹(いも)が手枕(たまくら)離れ夜立(よだ)ち来(き)のかも

意味

〈3476〉
 なるほど、あの子は私のことを恋しく思っているのだろう。月がどんどん過ぎて行くので、どんなにか恋しく思っていることだろう。
〈3477〉
 あの人が東路の手児の呼坂を越えて行ってしまったら、私は恋い焦がれてならないでしょう。たとえ後に逢うことができようとも。
〈3478〉
 遠いという故奈の白嶺のようになかなか逢えないが、逢う時も逢わない時も、いつも私はお前といい仲だと噂されている。
〈3479〉
 安可見山の草を刈り払って、逢うには逢ってくれたけど、いざという時にいやだと言ったあの娘が無性にいとおしい。
〈3480〉
 大君(天皇)のご命令を恐れ畏み、愛しい妻の手枕を離れ、夜の夜中に出立してきたことよ。

鑑賞

 3476の「うべ」は、なるほど、本当に、と首肯する意を表す副詞。「子なは」の「な」は、親愛の接尾語。「は」は提示。「我ぬに」の「我ぬ」は「われ」の東語。私に。「恋ふなも」は、恋しているのだなあ。「なも」は、推量の助動詞「らむ」の東語。「立と月のぬがなへ」は、「立つ月の流らへ」の意で、立つ月がどんどん流れて行くので。「恋しかるなも」は、恋しさが募るのだなあ。

 3477の「手児の呼坂」は、かわいい女が呼びかける坂の意で、所在は諸説あり不明ですが、静岡市駿河区や富士市の原田公園には「手児の呼坂」の歌碑が建てられています。この名は、男が、急峻な山坂を恐ろしい神に妨げられて越えられないので、女が男の名を呼び叫んだという伝説に基づくとされます。かつては東国への官道だった東道の「手児の呼坂」は、江戸時代初期に東海道が開通してからは、次第に知る人も少なくなっていったようです。「越えて去なば」は、あなたが越えて行ってしまったなら。「我れは恋ひむな」の「む」は推量、「な」は詠嘆の終助詞で、私はあなたを恋しく思うことだろう。「後は逢ひぬとも」は、後でまた逢えるとしても、いつか再会できるとしても。こちらは、旅立つ夫を送る妻の嘆きの歌です。京の人でしょうか。「呼坂」という名は、この歌の文脈では、背後で愛する人が「行かないで」と自分を呼び止めているような、あるいは自分の心が相手を呼び戻そうとしているような、切実なエコーとして響きます。

 3478の「遠しとふ」は、遠いという。「故奈の白嶺」は所在未詳ながら、上野国(現在の群馬県)にある子持山(こもちやま)を指すという説があります。「故奈」は来ない、「白嶺」は知らないという意味を含むとも解されます。「逢ほしだも」の「逢ほ」は「逢ふ」の訛り、「しだ」は、時・折・時期の意で、逢える時も。「逢はのへしだも」の「のへ」は、打消の助動詞「なふ」の連体形「なへ」の訛りで、逢わないときも。「汝にこそ寄され」の「汝」は、あなた。「寄され」は、関係があるように噂される。「こそ〜れ」の係り結びとなっており、あなたにこそ、私は(心を)寄せているのだという強い意志を表します。

 3479の「安可見山」は、栃木県佐野市赤見町にある山か。「草根刈り除け」は、野合(ひそかに結び交わる)の場所をもうける意。「草根」の「根」は、接尾語。「刈り除け」は、刈り払って。「逢はすがへ」の「逢はす」は「逢ふ」の尊敬語。「がへ」は、~の上で、お逢いしながらの意。「争ふ」は、抵抗する、従わない。「妹し」の「し」は、強意の副助詞。「あやにかなしも」の「あやに」は、無性に。「かなしも」は、愛おしい、切ないほど可愛い。情事の経験のない女が、いざとなると羞恥を感じて拒むようすを言っています。

 3480の「大君の命畏み」は、天皇への畏敬を表現する常套句で、天皇の命令で行動する(多くは旅の場合)文脈に用いられています。「愛し妹が」は、愛しい妻の。「手枕離れ」の「手枕」は、腕枕のことで、共寝を象徴する表現。「離れ」は、その温もりから離れて。「夜立ち来のかも」の「夜立ち」は、夜のうちに出発すること。「来のかも」は「来ぬかも」の訛りで、やって来てしまったことよ、という感嘆。この巻の終わり近くに「防人の歌」として5首(3567~3571)が載っていますが、この歌も防人の作と考えても不自然ではありません。
 


京と地方をつなぐ『万葉集』

 掲題の件について、国文学者の上野誠氏は、著書(『万葉集講義』/中公新書)のなかで次のように述べています。

  1. 『万葉集』は、宮廷文学であり、貴族文学であることは争う余地もない。一方で、歌々には身分や性差を越えた心の交流が期待されていたので、一瞥すると、天皇から庶民までの文学のように見える側面がある。けれども、それは、上位者の下位者に対する慈愛を指すものであることを忘れてはならない。まして、これを徒に理想化し、歌による平等社会を実現していたと見るのは誤りである。
  2. 都と地方は、支配と被支配、搾取と被搾取の関係だけで成り立っていたわけではない。地方における郡司層を中心に、漢字文化が普及すると、地方から多くの人びとが都にやって来ることになった。そこから、こういった上京者たちの苦悩に同情し、共感する文化も生み出されていった歴史がある。大伴家持と防人たち、山上憶良と荒雄の家族の心は共振しているといえよう。
  3. 律令官人の地方赴任、地方からの上京者の増大には、二つの側面があった。一つは、宮廷や都の文化を地方に浸透させる役割。もう一つは、都びとの地方文化への関心を喚起するという役割である。防人歌の収集と収載、東歌の収集と収載も、そういった二つの側面から考えてゆかねばならない。したがって、防人歌も、東歌も、宮廷文化の地方への浸透から生まれた地方文化の精華であると見ることもできる。
  4. 律令官人の地方赴任の拡大から、家族、友人の文通の機会も増大した。一方、自らの書簡を第三者に公開する場合、注が施されるなどの工夫も確認できる。これは、読まれることを前提とした『万葉集』において、すでに「書簡文学」が誕生していたことを表している。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。