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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3486~3490

訓読

3486
愛(かな)し妹(いも)を弓束(ゆづか)並(な)べ巻きもころ男(を)のこととし言はばいや勝たましに
3487
梓弓(あづさゆみ)末(すゑ)に玉巻きかく為為(すす)ぞ寝(ね)なななりにし奥(おく)を兼(か)ぬ兼ぬ
3488
生(お)ふ楉(しもと)この本山(もとやま)の真柴(ましば)にも告(の)らぬ妹(いも)が名(な)象(かた)に出(い)でむかも
3489
梓弓(あづさゆみ)欲良(よら)の山辺(やまへ)の繁(しげ)かくに妹(いも)ろを立ててさ寝処(ねど)払ふも
3490
梓弓(あづさゆみ)末(すゑ)は寄り寝む正香(まさか)こそ人目(ひとめ)を多(おほ)み汝(な)をはしに置けれ

意味

〈3486〉
 愛しい子よ。弓束を並べて巻くようにしっかり抱いて寝るが、恋敵の力と変わらないというなら、もっともっと強く抱いてやる。
〈3487〉
 梓弓の弓末に玉を巻いて飾り立てるように大切にしてきたのに、共寝しないままになってしまった。先々のことまでいろいろと考えてきたのに。
〈3488〉
 この本山の真柴ではないが、しばしばも口に出さない妻の名が、占いの形象(かた)に出はしないだろうか。
〈3489〉
 欲良の山辺の茂みにあの子を立たせたままにして、共寝の場所の準備のため、せっせと草を刈っている。
〈3490〉
 ゆくゆくは寄り添って寝ようと思っているのだが、今は人目が多いのであなたを中途半端にしているのだ。

鑑賞

 3486の「弓束」は、弓を射る時に握る中央部よりやや下の部分。「もころ男」は、同年配の男。恋敵の男。「事とし言はば」は、語義未詳ながら、ライバル同士というのならば、か。「し」は、強意の副助詞。「いや勝たましに」の「いや」は、いよいよ、ますます。「勝たましに」は、勝ったのだが。この歌の歌意は難解で、さまざまな解釈がありますが、いつもは強い男を自認していても、恋の虜になった女性にはかなわないとする、自嘲の歌としました。別の解釈としては、一人の女を二人の男が争うことを詠んだものと見て、例えば窪田空穂は、「階級制度の厳しく保たれている部落生活をしている青年が、深く心を寄せて来た女が、階級の高い男のものとなったと聞いた際の嘆きである。相手が同輩であれば断じて負けてはいない、必ず勝ったであろうが、階級の高い人とあってはいかんともし難いと、諦めようとする直前の心である」として、「かわゆいあの女を、弓束を並べて巻いてある物のように、同輩との情事だというのであったら、断じて勝ったであろうものを」のように解しています。

 3487の「梓弓」は、梓の木で作った弓。「末に玉巻き」は、末弭に玉を飾りつけて。「梓弓」を男自身、「玉」を女の譬喩として、女をわが物にした意。「かく為為ぞ」は、動詞「為(す)」を重ねて継続・反復を示した表現。しいしいして。「寝なななりにし」は、共寝をせずに終わってしまった。「奥」は将来。「兼ぬ」は、将来のことを考える。愚直に先のことばかり考えて、とうとう女との深い関係を持たないまま別れてしまった、あるいは、気を使いつつ交際する間に、他の男に女を横取りされてしまった男の歌とされます。

 3488の「生ふ楉」の「楉」は若い木の枝で、同音で「この本」に掛かる枕詞。「本」は、幹。上2句は、山に柴が生える意で「真柴にも」を導く序詞。掛詞となる「ましば」の「ま」は接頭語で、しばしばの意。「ましばにも告らぬ」は、しばしばも口にしない、めったに口にしない。「象」は、鹿などの動物の骨を焼き、ひびの具合で吉凶を占う「象焼き」のひびの形。「かも」は、疑問の終助詞。「象焼き」による卜占は東国地方に限らず広く行われたものらしく、『古事記』にも登場します。

 3489の「梓弓」は「欲良」の枕詞。「欲良の山」は、所在不明。「繁かく」は「繁し」のク語法で、繫っている所。「妹ろ」の「ろ」は接尾語。「さ寝処」の「さ」は、接頭語。女の手を引いて人目につかない藪に入ったものの、そのままでは横たわって抱くことができないので、せっせと藪を払っています。窪田空穂は、「歌垣の折などはもとより、平常でもこうした密会は行なわれていて、一般性のあったことだったのである。昂奮の情をまじえず、落ちついて楽しげに叙しているのはそのためである」と述べています。

 3490の「梓弓」は、縁語で「末」に掛かる枕詞。「末」は、将来。「寄り寝む」は、寄り添って一緒に寝よう。「正香」は、現在。「人目を多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、多いので。「汝をはしに置けれ」は、お前を中途半端なところに置いているが、そっけなくしているが。「置けれ」は「置けり」の已然形で「こそ」の係り結び。この歌には『柿本人麻呂歌集』に出ているとの注釈がありますが、この歌は集中に他になく、人麻呂歌集の全部の歌が採録されているのではなく、選択されていることを示しています。
 


踏歌と歌垣

 8世紀の宮廷では、踏歌(とうか)という行事があった。大陸から伝わった、足踏みして音を鳴らしながらの踊りである。宮廷で官人たちが列になって踊り、終了後には酒宴が開かれて、「糸引(いとびき)」と呼ばれる福引きの余興まである。同じころ、庶民の間でも踏歌が浸透し、流行していた。

 庶民の踏歌は、天平2年(730年)、天平神護2年(766年)、延暦17年(730年)というように、たびたび禁令が出されている。足を踏み鳴らして躍るという歌舞だけでなく、男女交じり合っての夜祭りになっており、風俗矯正の観点から禁令が出されていた。公共の場で夜遅くまで男女がたくさん集まって大騒ぎをしている・・・・・・という、まあこれは国家が禁止命令のなかで描いた姿であるが、若者たちの貴重な出会いと恋愛の場でもあっただろう。

 地方では、春の花や秋の紅葉の季節に行われた歌垣が、こうした男女の出会いの場となった。なかでも筑波山の歌垣は、関東平野の広い範囲から若者たちが集まる大規模なものであった。奈良時代に編纂された『常陸国風土記』には、「足柄の坂より東にある諸国の男も女も、春の花の開く季節、秋の紅葉の季節に、手をつないで列をなし、食事も持ってきて、馬で登ったり歩いて登ったり、楽しみ憩うのである」と描かれており、日ごろの労働から離れて楽しそうな人々の様子が目に浮かぶ。各地からいっせいにやってくるハイキングであった。そして、はじめて出会った男女が互いに惹かれれば、男は「妻問いの財」(婚約の証としての品物)を渡し、結ばれていくのである。

 (中略)また、夏にも、歌垣のようなことがあった。『常陸国風土記』久慈郡の条によれば、久慈川の石門(いわと)という淵(ふち)に、遠くから人々が避暑にやってきて、男女が歌い踊り、飲食を楽しんだという。おそらく各地で、農作業の手があく季節に、野外へ繰り出して飲食し、歌い踊る楽しみがあったのだろう。 

~『律令国家と万葉びと』から抜粋引用

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