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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3501~3505

訓読

3501
安波峰(あはを)ろの峰(を)ろ田に生(お)はるたはみづら引かばぬるぬる我(あ)を言(こと)な絶え
3502
我(わ)が目妻(めづま)人は放(さ)くれど朝顔(あさがほ)のとしさへこごと我(わ)は離(さか)るがへ
3503
安齊可潟(あせかがた)潮干(しほひ)のゆたに思へらばうけらが花の色に出(で)めやも
3504
春へ咲く藤(ふぢ)の末葉(うらば)のうら安(やす)にさ寝(ぬ)る夜(よ)ぞなき子ろをし思(も)へば
3505
うちひさつ宮の瀬川(せがは)のかほ花(ばな)の恋ひてか寝(ぬ)らむ昨夜(きそ)も今夜(こよひ)も

意味

〈3501〉
 安波の岡の山田に生えるタワミズラのように、引き寄せたらすなおに靡き寄ってきて、私との仲を絶やさないでほしい。
〈3502〉
 私の愛しい妻を、人は割こうとするけれど、(宿根草である)桔梗の花のように、何年経とうとも私は決して別れたりするものか。
〈3503〉
 安齊可潟の潮がゆったり引いていくように、のんびりした気分で思っているなら、どうしておけらの花のように顔色に出したりしようか。
〈3504〉
 春のころ、垂れ下がる藤の末葉のように、うらうらと心安らかに眠る夜もない、あの子のことを思うと。
〈3505〉
 宮の瀬川に咲くかお花のように、妻は私を恋しく思って一人さびしく寝ていることだろう、昨夜も今夜も。

鑑賞

 3501の「安波峰ろ」は、安房の国(千葉県)のいずれかの山か。「峰ろ」は「峰(を)」に接尾語「ろ」が付いた東国方言的な響き。「峰ろ田」は、山の斜面に作った田。棚田のようなイメージ。「生はる」は、生える。「たはみづら」は、水田に生える草ながら、具体的には未詳。以上3句は「引かば」を導く譬喩式序詞。「引かばぬるぬる」は、引くとするすると寄ってきて。3378と3416にもほぼ同形で出ており、慣用句だったと見られます。「ぬるぬる」という言葉は、現代では少し奇妙に聞こえますが、万葉の時代には「滞りなく、滑らかに、心地よく続く」というポジティブなニュアンスで使われていたようです。「我を言な絶え」の「な」は禁止で、私との間の言葉を絶やさないでくれ。関係を断たないでくれということ。

 3502の「目妻」は「愛づ妻」の約で、愛しい妻。あるいは目に留まるほど愛おしい妻の意か。「人は離くれど」は、他人は(二人の仲を)引き離そうとするけれど。「朝顔」は、桔梗の古名。「としさへこごと」は、語義未詳ながら、何年経とうともの意か。桔梗の宿根草であることを捉え、その多年にわたっての関係であることをいったものと見えます。「離るがへ」の「がへ」は「かは」の東語で、反語。離れようか、離れはしない。二人の関係を許さない娘の母親あたりが、仲を引き裂こうとしているのでしょうか。強い決意をもって、動揺している娘を励ましている男の歌と見えます。

 3503の「安齊可潟」は、所在未詳。「潮干のゆたに」は、潮干のようにゆったりと。潮が引いて、ゆったりと穏やかになった様子。「思へらば」は、もしも思っているのなら。「うけらが花」は、山野に自生するキク科の多年草オケラの花。地味ながらもしっかりとした色彩を持ち、秋の野に自生します。「色に出めやも」は反語で、顔色に出したりしようか、いや、そんなことはないはずだ。女から、あまりに態度やふるまいが目立つと咎められた男が、釈明し、自分の思いが深いことを訴えている歌と見えます。

 3504の「春へ」は、春のころ。「藤の末葉」は、藤の枝先の葉。上2句は、同音の「うら安」を導く序詞。同時に、藤の初々しい若葉に若い女の姿態を連想させています。「うら安に」は、心安らかに。「子ろをし」の「ろ」は接尾語で、妻や恋人を親しんで呼ぶ語。「し」は、強意の副助詞。「思へば」は、思っているので。何らかの事情で逢い難いがために、一夜も快く眠れないと嘆いている男の歌であり、「藤の末葉」という描写は単なる序詞以上の視覚的効果を持っています。春の藤は花が散った後、驚くべき勢いで若葉を茂らせ、蔓を伸ばします。その次から次へと溢れ出す緑のイメージが、作者の心の中に次々と湧き上がる、抑えきれない思いの象徴となっています。

 3505の「うち日さつ」は「うち日さす」の訛りで、「宮」の枕詞。「宮の瀬川」は、所在未詳。神社の傍の川の意か。「貌花」はどの花であるか未詳で、昼顔、朝顔、杜若、むくげなどの説や、単に美しい花という説があります。『万葉集』に「かほ花」が詠まれた歌は4首あり、「容花」「貌花」とも書かれます。国語学者の大槻文彦が明治期に編纂した国語辞典『言海』によれば、「かほ」とは「形秀(かたほ)」が略されたもので、もともとは目鼻立ちの整った表情を意味するといいます。上3句は「恋ひて」を導く譬喩式序詞。「恋ひてか寝らむ」は、私に恋い焦がれて寝ることであろうか。貌花がもし昼顔のことなら、夜になると、あたかも思慕の思いを胸中に秘めつつまなこを閉じるように花びらを閉じる花です。そうした姿から、この歌が生まれたのかもしれません。また、社の傍に咲く貌花と言っているのは、あるいは神に仕える女性(巫女)を指しているのでしょうか。
 


『万葉集』の解読作業

 『万葉集』は周知のようにもとはすべて漢字で書かれていました。これを万葉仮名というのは、漢字を仮名文字のように扱っているからです。すなわちこれは、漢字本来の意味を生かして書くのではなく(例外は多少ありましたが)、主として字音を活用して古代の大和言葉を表記したものでした。後年も似たようなことがくり返されています。すなわち近代日本におけるローマ字というものがそれです。ローマ字の場合は、借用したアルファベットそのものが音標文字でしたからきわめて便利でしたが、漢字の方は違います。これは元来一字一字意味をもっている文字ですから、これを音標文字として利用するというのは、それ自体実に大胆かつ創意ある工夫だったと言えると同時に、ひどくややこしい問題を後世に残すことになったのも当然でした。

 すなわち、『万葉集』が一応成立してから2世紀もすると、これをどう読めば五七五七七になるのかがすでに分からないという大問題が生じたのです。

 紀貫之らによって勅撰和歌集の第一『古今和歌集』が撰進され、醍醐天皇の奏覧に供されたのは延喜年間、西暦でいえば10世紀の初頭でしたが、この時でもすでに、8世紀後半に成立した『万葉集』はきわめて難読の、しかし神聖きわまる和歌集となっていました。時代は漢文学全盛の時代です。多くの貴族がすでに漢文本来の書き方、読み方に通じていた上、片仮名や平仮名も漢字をもとにして開発されていましたから、漢字そのものを日本式のやり方でいわば恣意的にねじ曲げ、それを大和言葉の和歌を書くのに利用した過去の人々の窮余の一策は、たぶん恐ろしく奇妙なものに見えたはずです。

 にもかかわらず、そこには古代天皇制の最も劇的な確立期の詩的証言である作品群が大量に含まれていました。天皇をはじめとする尊貴の人々の作が、柿本人麻呂や山部赤人の作とともにたくさん含まれています。当然解読されねばなりません。こうして『万葉集』解読の作業が、村上天皇の勅命によって正式に開始されたのです。第二の勅撰和歌集である『後撰和歌集』の撰者5人(大中臣能宣伝・清原元輔・源順・紀時文・坂上望城)が後宮の昭陽舎(通称梨壺)において、新しい勅撰和歌集を撰進することと同時に命じられ、作業を進めることになったのが、『万葉集』に訓点をほどこすという難事業でした。天歴5年、西暦951年のことです。

 紀時文は巨匠貫之の息子、源順は当代きっての漢学者でもあった才能抜群の文人歌人、清原元輔も傑出した歌人で代々教養豊かな文人の家の出でした。元輔の娘が清少納言です。

 梨壺の五人とよばれたこの人々が、毎日後宮の一室に通って仕事をしたのですが、おそらく『万葉集』解読は溜息つき通しの難事業だったろうと想像されます。今日にいたってもなお訓の定まらない歌がたくさんあるということからでも、それは分かります。

 しかし、この事業がきっかけで、『万葉集』は古代の闇の中から徐々に後世の光の中へ蘇ったのです。それの先鞭をつけたのが村上天皇の勅命だったということは、朝廷というものの文化的意味について考える時、無視できないものでした。

~大岡信著『私の万葉集』から引用

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