| 訓読 |
3515
我(あ)が面(おも)の忘れむしだは国(くに)溢(はふ)り嶺(ね)に立つ雲を見つつ偲(しの)はせ
3516
対馬(つしま)の嶺(ね)は下雲(したぐも)あらなふ可牟(かむ)の嶺(ね)にたなびく雲を見つつ偲(しの)はも
3517
白雲(しらくも)の絶えにし妹(いも)をあぜせろと心に乗りてここば愛(かな)しけ
3518
岩(いは)の上(へ)にいかかる雲のかのまづく人ぞおたはふいざ寝(ね)しめとら
3519
汝(な)が母に嘖(こ)られ我(あ)は行く青雲(あをくも)の出(い)で来(こ)我妹子(わぎもこ)相(あひ)見て行かむ
| 意味 |
〈3515〉
私の顔を忘れそうになった時は、国中に湧きあふれて嶺に現れる雲、その雲を見ては、私のことを思い出してください。
〈3516〉
対馬国の山には下雲がかからないので、可牟山にたなびいている雲を見ながらあの子を思い出そう。
〈3517〉
切れた白雲のように、とうに関係が絶えてしまった妻なのに、いまさらどうしろというのか、心に乗りかってきてこんなにも愛しくてならない。
〈3518〉
山の岩場の上に次々とかかる雲のように、いつも騒ぎ立てている連中のお節介もおさまった。さあ共寝をしようか、かわいい女よ。
〈3519〉
お前さんの母親に叱られて私は帰ることにするが、雲間の青空のように、ちらっとでも出てきておくれ私の恋人よ。一目でも見て帰りたい。
| 鑑賞 |
3515は、防人として旅立つ男に、その妻が贈った歌ではないかとみられ、3516は、防人として対馬(長崎県対馬市)にいる東国の男の、3515に対する答えのようになっている歌です。3515の「我が面の忘れむしだは」の「我が面」は、私の顔。「しだ」は、時(とき)・折を表す東国方言的表現。私の顔を忘れそうになった時は、の意。「国」は、ここは作者の郷土のこと。「溢り」は、あふれて。雲の立ち昇る様子を形容したもの。「嶺に立つ」は、山の峰に現れる。「偲はせ」は「偲ふ」の敬語の命令形で、思い出してください。
3516の「対馬の嶺」は、長崎県の対馬にある山。「下雲」は、山の下の方にたなびく雲、低い雲。「あらなふ」の「なふ」は打消の東語で、~がない、~ではない。「可牟の嶺」は所在未詳で、対馬から見える筑前か肥前の山か、あるいは「上の嶺」だとして、「低い雲がないので、上方にそびえる山にたなびいている雲を見ながら・・・」と解するものもあります。上の句からの流れでは、この解釈の方が自然であり、適当なもののように感じますが、いかがでしょうか。「見つつ偲はも」の「偲はも」は「偲はむ」の東語で、(雲を)見ながら(故郷や妻を)思い出そう。いずれにしても、雲に魂が宿るものと感じていたのか、あるいは、どんなに遠い地にあっても雲は同じように見られ、また、山の峰にかかる雲は不断に見られるところから、相手を偲ぶよすがとしていたようです。
3517の「白雲の」は、白雲の切れるさまから「絶え」にかかる枕詞。「絶えにし妹を」は、関係が絶えてしまった妻であるのに。「あぜせろと」の「あぜ」は、いかに、どのように。「せろ」は「せよ」の東語。「と」は、というのか。「心に乗りて」は、深く心にかかって、自分の心から離れないこと。「ここば」は、たいそう、これほどまでに。「愛しけは、「愛(かな)しい」の東国方言的な連体形。ここでは詠嘆を含みます。別れた妻への未練から、自らの心のありようを自問している男の歌です。
3518は、3409の「伊香保ろに天雲い継ぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら」の別伝。いずれかが原歌で、それを詠み替えたもののようです。「岩の上に」は、山の岩場の上に。「いかかる雲の」の「い」は、接頭語。(次々に)かかる雲のように。「かのまづく」「おたはふ」はいずれも語義未詳ながら、かまびすしく人が騒ぎ立てる意ではないかとされます。「とら」は「児ら」とも人名とも。ただでさえ難解な東歌の中にあって、語義を決定できないものが3語もあるため、難解な歌とされます。
3519の「嘖られ」は、大声で叱られて。「青雲の」は「出で来」の枕詞。「出で来」は、出て来いよ。「相見て行かむ」は、一目だけでも顔を見て帰りたい。妻問いが不首尾に終わった歌であり、この時代の日本は厳密な意味での「母系社会」ではなかったというものの、母親の地位は高く、とくに娘の結婚に母親が口出しし、婿選びをするなど、結婚決定権は父親ではなく母親にあったようです。この歌のほかにも、母親が娘の交際相手を管理し、時には恋の障害となる歌が数多くあり、3529にも、母に叱責される例が見られます。

国郡里、国郡郷
律令制の導入によって、地方は国-郡-里(り)という組織に編成された。もっとも、これは大宝律令で規定された姿であり、そこに至るまでの7世紀段階での変遷があり、また大宝律令施行後も変遷があった。郡の前身である評が組織されたのは、7世紀半ばのことである。そして、その下には「五十戸(さと)」という表記の組織ができた。いくつかの評を編成してできた「国」は、評の成立した時期に単位として成立したようである。こうして国-評-五十戸という組織ができ、天武天皇12年(683年)から持統天皇2年(688年)頃に五十戸は里の表記に変わり、国-評-里となった。
大宝律令の施行によって、評は郡となり、国-郡-里の制度となる。さらに、きめ細かな行政をめざし、霊亀3年(717年)からは国-郡-郷(ごう)-里という4段階の編成がとられた。従来の里は郷となり、その下にさらに里が区分されたのである。そのさらに23年後の天平12年(740年)頃、今度は最末端の里が廃止され、国-郡-郷という3段階となった。以後、この「国-郡-郷」制が続いていくことになる。律令制の地方組織として、律令規定にある「国-郡-里」という表記が紹介されることが多いが、実際には「国-郡-郷」として存続した期間のほうがはるかに長い。
「国」は現在の都府県に相当する広さをもっている。江戸時代までは国が存続したが、明治時代に府県制が導入されて転換した。そのしたの「郡」は、現在の市や郡の規模である。現代でも残っている「郡」は、この時代から続いているものもある。地方組織が整備され、現代につながる規模の単位がつくりだされたのが、この時代であった。
~『律令国家と万葉びと』から引用
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