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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3515~3519

訓読

3515
我(あ)が面(おも)の忘れむしだは国(くに)溢(はふ)り嶺(ね)に立つ雲を見つつ偲(しの)はせ
3516
対馬(つしま)の嶺(ね)は下雲(したぐも)あらなふ可牟(かむ)の嶺(ね)にたなびく雲を見つつ偲(しの)はも
3517
白雲(しらくも)の絶えにし妹(いも)をあぜせろと心に乗りてここば愛(かな)しけ
3518
岩(いは)の上(へ)にいかかる雲のかのまづく人ぞおたはふいざ寝(ね)しめとら
3519
汝(な)が母に嘖(こ)られ我(あ)は行く青雲(あをくも)の出(い)で来(こ)我妹子(わぎもこ)相(あひ)見て行かむ

意味

〈3515〉
 私の顔を忘れそうになった時は、国中に湧きあふれて嶺に現れる雲、その雲を見ては、私のことを思い出してください。
〈3516〉
 対馬国の山には下雲がかからないので、可牟山にたなびいている雲を見ながらあの子を思い出そう。
〈3517〉
 切れた白雲のように、とうに関係が絶えてしまった妻なのに、いまさらどうしろというのか、心に乗りかってきてこんなにも愛しくてならない。
〈3518〉
 山の岩場の上に次々とかかる雲のように、いつも騒ぎ立てている連中のお節介もおさまった。さあ共寝をしようか、かわいい女よ。
〈3519〉
 お前さんの母親に叱られて私は帰ることにするが、雲間の青空のように、ちらっとでも出てきておくれ私の恋人よ。一目でも見て帰りたい。

鑑賞

 3515は、防人として旅立つ男に、その妻が贈った歌ではないかとみられ、3516は、防人として対馬(長崎県対馬市)にいる東国の男の、3515に対する答えのようになっている歌です。3515の「我が面の忘れむしだは」の「我が面」は、私の顔。「しだ」は、時(とき)・折を表す東国方言的表現。私の顔を忘れそうになった時は、の意。「国」は、ここは作者の郷土のこと。「溢り」は、あふれて。雲の立ち昇る様子を形容したもの。「嶺に立つ」は、山の峰に現れる。「偲はせ」は「偲ふ」の敬語の命令形で、思い出してください。
 
 3516の「対馬の嶺」は、長崎県の対馬にある山。「下雲」は、山の下の方にたなびく雲、低い雲。「あらなふ」の「なふ」は打消の東語で、~がない、~ではない。「可牟の嶺」は所在未詳で、対馬から見える筑前か肥前の山か、あるいは「上の嶺」だとして、「低い雲がないので、上方にそびえる山にたなびいている雲を見ながら・・・」と解するものもあります。上の句からの流れでは、この解釈の方が自然であり、適当なもののように感じますが、いかがでしょうか。「見つつ偲はも」の「偲はも」は「偲はむ」の東語で、(雲を)見ながら(故郷や妻を)思い出そう。いずれにしても、雲に魂が宿るものと感じていたのか、あるいは、どんなに遠い地にあっても雲は同じように見られ、また、山の峰にかかる雲は不断に見られるところから、相手を偲ぶよすがとしていたようです。

 3517の「白雲の」は、白雲の切れるさまから「絶え」にかかる枕詞。「絶えにし妹を」は、関係が絶えてしまった妻であるのに。「あぜせろと」の「あぜ」は、いかに、どのように。「せろ」は「せよ」の東語。「と」は、というのか。「心に乗りて」は、深く心にかかって、自分の心から離れないこと。「ここば」は、たいそう、これほどまでに。「愛しけは、「愛(かな)しい」の東国方言的な連体形。ここでは詠嘆を含みます。別れた妻への未練から、自らの心のありようを自問している男の歌です。

 3518は、3409の「伊香保ろに天雲い継ぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら」の別伝。いずれかが原歌で、それを詠み替えたもののようです。「岩の上に」は、山の岩場の上に。「いかかる雲の」の「い」は、接頭語。(次々に)かかる雲のように。「かのまづく」「おたはふ」はいずれも語義未詳ながら、かまびすしく人が騒ぎ立てる意ではないかとされます。「とら」は「児ら」とも人名とも。ただでさえ難解な東歌の中にあって、語義を決定できないものが3語もあるため、難解な歌とされます。

 3519の「嘖られ」は、大声で叱られて。「青雲の」は「出で来」の枕詞。「出で来」は、出て来いよ。「相見て行かむ」は、一目だけでも顔を見て帰りたい。妻問いが不首尾に終わった歌であり、この時代の日本は厳密な意味での「母系社会」ではなかったというものの、母親の地位は高く、とくに娘の結婚に母親が口出しし、婿選びをするなど、結婚決定権は父親ではなく母親にあったようです。この歌のほかにも、母親が娘の交際相手を管理し、時には恋の障害となる歌が数多くあり、3529にも、母に叱責される例が見られます。
 


国郡里、国郡郷

 律令制の導入によって、地方は国-郡-里(り)という組織に編成された。もっとも、これは大宝律令で規定された姿であり、そこに至るまでの7世紀段階での変遷があり、また大宝律令施行後も変遷があった。郡の前身である評が組織されたのは、7世紀半ばのことである。そして、その下には「五十戸(さと)」という表記の組織ができた。いくつかの評を編成してできた「国」は、評の成立した時期に単位として成立したようである。こうして国-評-五十戸という組織ができ、天武天皇12年(683年)から持統天皇2年(688年)頃に五十戸は里の表記に変わり、国-評-里となった。

 大宝律令の施行によって、評は郡となり、国-郡-里の制度となる。さらに、きめ細かな行政をめざし、霊亀3年(717年)からは国-郡-郷(ごう)-里という4段階の編成がとられた。従来の里は郷となり、その下にさらに里が区分されたのである。そのさらに23年後の天平12年(740年)頃、今度は最末端の里が廃止され、国-郡-郷という3段階となった。以後、この「国-郡-郷」制が続いていくことになる。律令制の地方組織として、律令規定にある「国-郡-里」という表記が紹介されることが多いが、実際には「国-郡-郷」として存続した期間のほうがはるかに長い。

 「国」は現在の都府県に相当する広さをもっている。江戸時代までは国が存続したが、明治時代に府県制が導入されて転換した。そのしたの「郡」は、現在の市や郡の規模である。現代でも残っている「郡」は、この時代から続いているものもある。地方組織が整備され、現代につながる規模の単位がつくりだされたのが、この時代であった。

~『律令国家と万葉びと』から引用

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『万葉集』クイズ

 次の歌の作者は誰?

  1. 嗚呼見の浦に船乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか
  2. 楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも
  3. 昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり
  4. 我れはもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり
  5. 人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る
  6. あをによし寧楽の京師は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
  7. わが盛また変若めやもほとほとに平城の京を見ずかなりけむ
  8. 新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事
  9. 四つの船早帰り来と白香付く我が裳の裾に斎ひて待たむ
  10. 百済野の萩の古枝に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも


【解答】
1.柿本人麻呂 2.高市黒人 3.藤原宇合 4.藤原鎌足 5.但馬皇女 6.小野老 7.大伴旅人 8.大伴家持 9.孝謙天皇 10.山部赤人

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