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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3520~3524

訓読

3520
面形(おもかた)の忘れむ時(しだ)は大野(おほの)ろにたなびく雲を見つつ偲(しの)はむ
3521
烏(からす)とふ大軽率鳥(おほをそどり)の真実(まさで)にも来(き)まさぬ君をころくとぞ鳴く
3522
昨夜(きそ)こそは児(こ)ろとさ寝(ね)しか雲の上(うへ)ゆ鳴き行く鶴(たづ)の間遠(まとほ)く思ほゆ
3523
坂越えて安倍(あへ)の田(た)の面(も)に居(ゐ)る鶴(たづ)のともしき君は明日(あす)さへもがも
3524
真小薦(まをごも)の節(ふ)の間(ま)近くて逢はなへば沖つ真鴨(まかも)の嘆きぞ我(あ)がする

意味

〈3520〉
 あなたの面ざしを忘れそうになったら、広々とした野にたなびいている雲を見つつ、あなたを偲びましょう。
〈3521〉
 カラスという大慌て者の鳥めが、本当においでになったわけではないあの方なのに、ころく、ころくと鳴く。
〈3522〉
 昨夜あの子と寝たばかりなのに、雲の上を行く鶴の鳴き声が遠くに聞こえ、もう遠い昔のように思われる。
〈3523〉
 坂を越えて飛んできて、安倍の田んぼに降り立っている鶴のように、心惹かれるあの方に、明日もまた来てほしいものです。
〈3524〉
 真薦(まこも)の節と節の間のように近くにいながら、逢うことができないので、沖に棲む真鴨のように私は嘆いている。

鑑賞

 3520の「面形」は、顔の形、面ざし。「忘れむ時は」は、忘れそうなときは。「時(しだ)」は、「時」を意味する東国方言。「大野ろ」の「大野」は普通名詞で、広い野原。「ろ」は、接尾語。防人として旅立つ夫に、その妻が贈った歌とされます。なぜ雲を見つめるのか。古代において、雲は「人の魂」や「思い」が立ち上ったもの、あるいは遠く離れた地と繋がっているものと考えられてきました。大野にゆったりとたなびく雲の姿に、手の届かない恋人の姿を重ね、視覚的な手がかりとして定着させたのです。

 3521の「烏とふ」の「とふ」は「といふ」の約。「大軽率鳥」の「軽率」は、慌て者の意。「真実にも」は、本当に、確かに。「来まさぬ」は「来ぬ」の敬語。「ころく」は、烏の鳴き声と、恋しい人が来る「子ろ来」を掛けています。男の来訪を待ち侘びている女が、烏の鳴き声に占いを試み、「子ろ来」と聞きなしたものの、男が来ない恨みを烏に八つ当たりする心情を歌っています。女が男を「子ろ」と言うのは適当とは言えないものの、鳥の鳴き声に無理に合わせたと見えます。

 3522の「昨夜こそは」は、たった昨夜、ほんの昨夜。「児ろ」の「ろ」は、親しみを込めた接尾語。「さ寝しか」の「さ」は、接頭語。「しか」は、過去の助動詞「き」の已然形で、上の「こそ」の係り結びとなり、強い感動や強調を表します。「雲の上ゆ鳴き行く鶴の」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。~を通って。第3・4句は「間遠く」を導く譬喩式序詞。「間遠く思ほゆ」は、遠い昔のようにに思われる。「昨夜寝たばかりなのに、もうこんなに遠く感じる」と、飽くことのない恋情を表しています。

 3523の「安倍」は、静岡市の安倍川付近の地とされます。駿河国の歌に入っていないのは編集者が見落としたものか。「居る鶴の」は、降り立っている鶴のように。上3句は「ともしき」を導く譬喩式序詞。「ともしき君」は、心惹かれる、慕わしいあなた。「ともし」はもともと、乏しい、数が少ない意の語であるため、ここでは訪れ来ることの少なく稀であるという意味も込められているともいわれます。「明日さへもがも」の「もがも」はで、明日もまた来てほしい。早朝に男が帰るのを見送って、たまたま田に降り立っている鶴を見て、このように歌った歌とされます。

 3524の「真小薦」の「真」も「小」も接頭語。「薦」は、ここでは荒く織ったむしろ。「真小薦の節の」の7音は、その節と節の間または編み目の間隔が短いことから、「間近く」を導く譬喩式序詞。「間近くて」は、家がすぐ近くにありながら。「逢はなへば」の「なへ」は、東語の打消の「なふ」の已然形。「沖つ真鴨の」は、沖に棲む真鴨のようにで、「嘆き」を導く序詞。ただ、長歌ならともかく、わずか31音の短歌に2つの序詞があるのは認めがたいとして、これを譬喩句と見る向きもあります。
 


巻第14と東歌について

 巻第14は「東国(あづまのくに)」で詠まれた作者名不詳の歌が収められており、巻第13の長歌集と対をなしています。国名のわかる歌とわからない歌に大別し、それぞれを部立ごとに分類しています。当時の都びとが考えていた東国とは、おおよそ富士川と信濃川を結んだ以東、すなわち、遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥の国々をさしています。『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。

 もっともこれらの歌は東国の民衆の生の声と見ることには疑問が持たれており、すべての歌が完全な短歌形式(5・7・5・7・7)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。国文学者の品田悦一は、近代以降に「万葉集=国民歌集」「東歌=庶民の歌」というイメージが、国家・教育・文化装置として構築されてきた背景を批判的に問い直しており、東歌に位置づけを、律令国家・地域統治・文化流通という制度的・編纂的な視点から捉え直すことを提起しています。

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古典に親しむ

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