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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3525~3529

訓読

3525
水久君野(みくくの)に鴨(かも)の這(は)ほのす子ろが上(うへ)に言(こと)緒(を)ろ延(は)へていまだ寝(ね)なふも
3526
沼(ぬま)二つ通(かよ)は鳥が巣(す)我(あ)が心 二行(ふたゆ)くなもとなよ思(も)はりそね
3527
沖に棲(す)も小鴨(をかも)のもころ八尺鳥(やさかどり)息づく妹(いも)を置きて来(き)のかも
3528
水鳥(みづどり)の立たむ装(よそ)ひに妹(いも)のらに物言(ものい)はず来(き)にて思ひかねつも
3529
等夜(とや)の野に兎(をさぎ)狙(ねら)はりをさをさも寝なへ児(こ)ゆゑに母にころはえ

意味

〈3525〉
 水久君野で鴨が水に漬かって這うように、あの子にずっと言葉をかけ続けているけれど、いまだに共寝ができないでいる。
〈3526〉
 二つの沼を行き来する鳥の巣が二つあるように、私の心が二人の女の所に通っているなどと思ってくれるなよ。
〈3527〉
 離れて沖に棲む鴨のように、長いため息をついて嘆き悲しむ妻を、後に残して私は旅立って来たことだ。
〈3528〉
 旅の身支度に忙しく、愛しい妻にろくに言葉もかけずに来てしまい、嘆きに堪えられないことだ。
〈3529〉
 等夜(とや)の野に兎を狙っているわけではないが、ろくすっぽ寝てもいないあの子なのに、母親にこっぴどく叱られてしまった。

鑑賞

 3525の「水久君野」は地名とされますが、所在未詳。「鴨の這ほのす」の「這ほ」「のす」は、それぞれは「這ふ」「なす」の東語で、鴨が這うように、の意。「子ろ」は、女性を親しんで呼ぶ東語。「言をろ延へて」の「ろ」は、接尾語。「言を延ふ」は、言葉をかけ続ける。「寝なふも」の「なふ」は、東語の打消の助動詞。まだ共寝ができないでいる。優柔不断なのか、あるいは要領が悪いのか、なかなか本意を遂げられない男の煩悶の歌です。東歌は、どれも歌の基本形が整っている一方で、この歌のように、過度に方言臭を着けることで殊更に地方色を出そうとしている意図が見える歌が少なくありません。朝廷の威力が東国にまで及んでいることを示すために設けられた巻第14とされますが、そのためもあってか、編者の手がかなり加わっているのではないかとみられています。

 3526の「沼二つ」は、沼二つを。「通は」は「通ふ」の東語。「鳥が巣」は、鳥の巣。上2句は「二行く」を導く譬喩式序詞。「二行くなも」の「二行く」は、二か所に通う、すなわち二人の女の所に通う意。「なも」は、現在推量「らむ」の東語。「なよ思はりそね」の「な~そね」は、禁止。「な」の下の「よ」は間投助詞で、ここに「よ」が接しているのは珍しい形。女から、自分以外にも通う所があるのではと疑われた男が、沼から沼へと飛び移る水鳥とは違うと、強く否定している歌です。

 3527の「棲も」は「棲む」の東語。「もころ」は、~のようにの意の名詞。「八尺鳥」は、カイツブリのことで、長い息をつく鳥、水中での息が長い鳥の意から「息づく」に掛かる枕詞。「息づく妹を」は、嘆き悲しむわが妻を。「来のかも」は「来ぬかも」の東語。「かも」は、詠嘆の終助詞。遠くに旅立つ夫が妻と別れた後に、後ろ髪を引かれるような思いを詠んだ歌で、多くは防人の歌ではないかと見ています。

 3528の「水鳥の」は、水鳥が飛び立つ意で「立たむ」に掛かる枕詞。「立たむ装ひ」は、慌しい旅立ちのための準備、身支度。「妹のら」の「のら」は、親愛の接尾語の東国形。「思ひかねつも」は、思いに堪えられないことだ、何とも悲しくてならない。なお、この巻の終わり近くに「防人の歌」として5首(3567~3571)が載っていますが、この歌も、前歌と同様、防人の作と考えても不自然ではありません。

 3529の「等夜の野」は、所在未詳。「兎(をさぎ)」は、兎(うさぎ)の東語。「狙はり」は「狙へり」の東語。上2句は、娘に近づく機会を狙っているのを、兎を狙うことに喩えており、また「をさぎ」の同音で「をさをさ」を導く序詞。「をさをさ」は、下に打消の語をともなう副詞で、ほとんど、ろくすっぽの意。「寝なへ」は、東語の打消しの助動詞「なふ」の連体形。現代語の「ない」の源と言われます。「ころはえ」は、大声で叱られる、こっぴどく叱られる。「え」は、受身の助動詞「ゆ」の連用形。女の家へ忍んで行き、その母親に発見されて追われた男の愚痴の歌です。なお、兎は、狩りなどでも身近な動物だったはずですが、『万葉集』で兎を詠んでいるのはこの1首のみです。
 


巻第14と東歌について

 巻第14は「東国(あづまのくに)」で詠まれた作者名不詳の歌が収められており、巻第13の長歌集と対をなしています。国名のわかる歌とわからない歌に大別し、それぞれを部立ごとに分類しています。当時の都びとが考えていた東国とは、おおよそ富士川と信濃川を結んだ以東、すなわち、遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥の国々をさしています。『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。

 もっともこれらの歌は東国の民衆の生の声と見ることには疑問が持たれており、すべての歌が完全な短歌形式(5・7・5・7・7)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。国文学者の品田悦一は、近代以降に「万葉集=国民歌集」「東歌=庶民の歌」というイメージが、国家・教育・文化装置として構築されてきた背景を批判的に問い直しており、東歌に位置づけを、律令国家・地域統治・文化流通という制度的・編纂的な視点から捉え直すことを提起しています。

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庶民の住居

 当時の庶民が居住したのは、おおむね竪穴(たてあな)住居であった。竪穴を掘り、柱を立てたあとで屋根をかける方式は、縄文時代以来、基本的な建築技術は変わっていない。縄文時代には円形の床面をもつ竪穴が主流であったが、この時代には四角い床面が主流になってくる。竪穴の壁ぎわに沿って溝が掘られたものや、壁土が崩れないように土留め材を巡らせたものもあった。

 6世紀までは各地で竪穴住居が見られたが、7世紀になると、近畿地方、東海地方や中国地方ではあまり見られなくなってくる。国内におけるいわば先進地帯を中心に、平地をそのまま床面にしたり、地面の上に床を張った平地式の掘立柱(ほったてばしら)建物による住居が使われていた可能性が高い。

 縄文時代の竪穴住居には、各棟に必ず炉の跡があるが、古墳時代以降は、炉にかわって竈(かまど)が設けられるようになった。煙を屋外に出すために、竈は竪穴の壁ぎわにつくられ、炊事の場は壁ぎわに固定されるようになった。住居の床面は、10~20平方mの広さのものが多い。8畳の和室程度の広さと考えればよいだろう。入り口と炊事・貯蔵の場以外のスペースが、寝所ということになる。

 7世紀以降の東国の集落では、このような竪穴住居が5~6棟ほど、まとまって分布していることが多い。そして、こうした5~6棟ほどのグループがさらにいくつか集まって、集落が形成されている。集落のなかには、住居を建てないで維持している広場のような空間があり、集落全体で共有する作業場のように使われていたのだろう。

 そして8世紀になると、集落のなかの一区画に掘立柱建物が建てられるようになってくる。村の有力者が掘立柱建物を建てるようになってきたのであろう。こうした掘立柱建物の付近からは、帯飾りや硯(すずり)など、役人的存在をうかがわせるものが出土することも多く、村の有力者は、国家の末端とつながりをもつようになってきていたのである。

~『律令国家と万葉びと』から抜粋引用

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。