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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3530~3534

訓読

3530
さ雄鹿(をしか)の伏(ふ)すや草むら見えずとも子ろが金門(かなと)よ行かくし良(え)しも
3531
妹(いも)をこそ相(あひ)見に来しか眉引(まよび)きの横山辺(よこやまへ)ろの猪鹿(しし)なす思(おも)へる
3532
春の野に草(くさ)食(は)む駒(こま)の口やまず我(あ)を偲(しの)ふらむ家の子ろはも
3533
人の子の愛(かな)しけ時(しだ)は浜洲鳥(はますどり)足(あ)悩(なゆ)む駒(こま)の惜(を)しけくもなし
3534
赤駒(あかごま)が門出(かどで)をしつつ出(い)でかてにせしを見立てし家の子らはも

意味

〈3530〉
 牡鹿が伏している草むらのように、たとえ姿は見えなくても、あの子の家の金門の前を通って行くのはうれしいものだ。
〈3531〉
 彼女に逢いに来ただけなのに、横山あたりをうろつく猪鹿のように思いやがって。
〈3532〉
 春の野で草を食む馬の口がやまないように、私のことをしきりに偲んでいることだろうな、家に残したわが妻は。
〈3533〉
 かわいい女が愛しくてならない時は、浜や洲にいる鳥のように、歩き辛くなっている飼馬も、乗るのをかわいそうにとは思わない。
〈3534〉
 私の乗った赤毛の馬が、出発のときに渋るのを、見送ってくれた家の妻は、ああ、今ごろどうしているのか。

鑑賞

 3530の「さ雄鹿」の「さ」は、接頭語。「伏すや草むら」は、雄鹿の伏す草むらのように。上2句は「見えず」を導く譬喩式序詞。「子ろ」は、女性を親しんで呼ぶ東語。「金門」は未詳ながら「金」は「門」の美称とも言われます。「行かくし」の「行かく」は「行く」のク語法で名詞形。「し」は、強意の副助詞。「良(え)し」は「よし」の東語。いつも追っている鹿は、草むらに伏していると見つけにくい、家の奥に入っている恋人の姿も見えないけれど、その人の家の前を通るだけでも胸が騒ぐと言っており、古今東西、恋人の家の周りをさまよい歩く男の姿に変わりはないようです。

 3531の「相見に」は、逢いに。「来しか」の「しか」は「こそ」の係り結びで、来たのだ。「眉引きの」は、低山の稜線を女性の長い眉に喩えたもので、その眉が横に長いことから「横」に掛かる枕詞。「横山」は、横に長い低山。「辺ろ」の「ろ」は、接尾語で、辺りにいる。「猪鹿なす」の「なす」は、~のような、~のように。「思へる」はいわゆる連体形止めで、ふつう余情を持たせ、詠嘆的に解します。女の母親に発見され追われた時に、「害獣が田畑を荒らしにきたとでも思っているのか」と憤慨し毒づいている男の歌です。3529の歌にもありましたが、娘の母親は恋の監視者として、男子にとって極めて高い障壁となっていたと見えます。

 3532は、男が旅に出て、家の妻を思う歌。「春の野に草食む駒の口」は「やまず」を導く譬喩式序詞。「我を偲ふらむ」の「らむ」は現在の推量で、私を懐かしんでくれているだろう。「家の児ろ」は、一緒に住んでいる妻。「はも」は、強い詠嘆の終助詞。愛しさや切なさが込み上げる気持ちを表現しています。序詞は実景をそのまま用いたものらしく、佐佐木信綱は、「天真の妙があって、技巧の企及しがたい趣」と評しています。窪田空穂は、「防人などであるかもしれぬ」としていますが、衛士・仕丁として都に赴いた者の作かもしれません。

 3533の「人の子」は、人の娘で、まだ「吾妹」とは呼べない関係の女性、または「子」を強調するため「人の」を冠した語。「愛しけ」は「愛しき」の東語。「時(しだ)」は、時。「浜洲鳥」は、浜の洲に棲む水鳥で、陸上を歩く時には不格好な歩みになるところから「足悩む」に掛かる枕詞。「足悩む」は、蹄を割るなど足の具合を悪くしている意。「惜しけく」は、形容詞「惜しけし」のク語法で名詞形。大切な馬がかわいそうだが、女のもとへ急ぐあまり、それを思ってはいられないと言っています。

 3534の「赤駒」は、赤みを帯びた毛色の馬。「門出をしつつ」は、家を出発しようとして。防人や衛士・仕丁などに徴されてのことと思われ、乗馬で行くのは、ある地点までだっただろうとされます。「出でかてにせしを」は、出て行きにくそうにしたのを。「かて」は、可能の意の「かつ」の未然形。「見立てし」は、見送っていた。「はも」は、詠嘆の終助詞。この歌の特徴は、作者の悲しみを直接語らず、代わりに馬の動きに語らせているところにあります。本来、馬は主人が促せば進むものですが、ここでは「出でかてに」と表現されています。主人の「本当は行きたくない、離れたくない」という未練が馬の足取りに乗り移っているようでもあり、あるいは愛する彼女との別れを馬さえも惜しんでいるかのような幻想的なリアリズムを生んでいます。

 和銅5年(712年)正月十六日の詔に「諸国の役民郷に還る日、食糧絶え乏しく、多く道路に飢へて、溝壑に転填すること、其の類少なからず」とあり、巻第9にある田辺福麻呂の「足柄の坂を過ぎて死(みまか)れる人を見て作る歌」は、任務を終えて帰国の途についた衛士や仕丁、あるいは脚夫たちが行路に餓死した無残な姿を詠んだものです。当時の庶民の旅は、地元での力役のための旅は別として、必ず生きて帰れるという保証は全くないものでした。彼らの旅の困苦は想像に絶するものがあり、また、残った家族の不安と心労もはかり知れないものであったに違いありません。
 


東歌の国別集計

  • 東海
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  • 関東
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  • 東北
    陸奥 4
  • 不明 140

(合計)230

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