| 訓読 |
3535
己(おの)が命(を)をおほにな思ひそ庭に立ち笑(ゑ)ますが故(から)に駒(こま)に逢ふものを
3536
赤駒(あかごま)を打ちてさ緒引(をび)き心引(こころび)きいかなる背(せ)なか我(わ)がり来(こ)むと言ふ
3537
柵越(くへご)しに麦(むぎ)食(は)む小馬(こうま)のはつはつに相見(あひみ)し児(こ)らしあやに愛(かな)しも
(或本の歌に曰はく)
馬柵(うませ)越し麦(むぎ)食)は)む駒(こま)のはつはつに新肌(にひはだ)触れし児(こ)ろし愛(かな)しも
3538
広橋(ひろはし)を馬越しがねて心のみ妹(いも)がり遣(や)りて我(わ)はここにして
[或本の歌の上二句] 小林(をはやし)に駒(こま)を馳ささげ
3539
崩岸(あず)の上に駒(こま)を繋(つな)ぎて危(あや)ほかど人妻(ひとづま)子ろを息(いき)に我(わ)がする
| 意味 |
〈3535〉
ご自分の命を粗末にしないで下さい。あなたが庭に立って微笑んおられると、思う人の乗馬がまた現れるというではありませんか。
〈3536〉
赤毛の馬を鞭打ち、手綱を引き締めて歩みを急がせるように、私の気を引いて、どんなお方が私を訪ねて来るというのでしょう。
〈3537〉
柵越しにほんの少し麦を盗み食いする仔馬のように、わずかに関係した女だが、やたらに愛しくてならない。
(或る本の歌に曰く)
馬柵越しにほんの少し麦を盗み食いする馬のように、わずかに新肌に触れた女だが、やたらに愛しくてならない。
〈3538〉
馬が広い橋を越えかねるように、心はあの子の許へ行かせるけれど、我が身は行きかねて逡巡としている。
〈3539〉
今にも崩れそうな崖の上に馬をつなぐのが危なっかしいように、人妻のあの子を心にかけるのは危なっかしいけれど、命がけで思っている。
| 鑑賞 |
3535の「己が命を」は、自分の命を。「おほに」は、おろそかに、いいかげんに。「な思ひそ」の「な~そ」は、禁止。「庭に立ち」の「庭」は屋前で、家への通路。そこに立って。「笑ますが故に」は、微笑まれさえすれば。「笑ます」の主語は女で、尊敬語。男の訪れが途絶えて、死んでしまいたいとまで思いつめる女を、見かねた第三者が慰めている歌のようです。当時、庭に立って微笑むと思う人がやって来るというような信仰でもあったのでしょうか。
3536の「赤駒を打ちて」は、赤駒に鞭打って。「さ緒引き」の「さ」は接頭語で、手綱を引くように。上2句は「心引き」を導く同音。「心引く」は、相手の気持ちを自分の方に引き寄せる意。「背な」の「な」は接尾語で、女性が夫あるいは男性を親しんで呼ぶ語。「我がり」は、私のもとへ。「これから先、どのような心映えの男の人が私の夫となるのでしょうか」と、初々しい乙女心の、はにかみと期待の気持ちがうたわれています。一方では、捨てられた女がよりを戻そうとする男に皮肉を込めて贈った歌と見るものもあります。
なお、東歌には、馬を詠んだ歌が15首あり、うち8首は馬に乗って出歩く歌です。この時代、高価な馬を飼育して乗り回すことができたのは、一握りの豪族層、最低でも下級官人クラスであっただろうとみられています。
3537の「柵(くへ)」は、柵垣の意の東語。「麦食む小馬の」は、麦を食う小馬のように。「小馬」は、作者である男性の比喩。上2句は「はつはつに」を導く譬喩式序詞。「はつはつに」は、ほんのわずかにの意で、辛うじて、やっとのことでといった含みがあります。「相見る」は、男女が関係を結ぶこと。「児らし」の「児ら」は、女の愛称。「し」は、強意の副助詞。「あやに愛しも」の「あやに」は、やたらに、何とも言いようがなく。カナシは「悲し(哀し)」と「愛し(いとしい)」の両義がありますが、東歌では多くが後者の意で用いられています。「或る本の歌」の「新肌」は、初めて男に許す女の肌。いずれも、若者の、つかの間の性体験をうたった率直な歌です。なお、『古今集』に壬生忠岑(みぶのただみね)の「春日野の雪間を分けて生ひ出でくる草のはつかに見えし君かも」があり、「はつかに見る」ことが歌われています。3537の「はつはつ」を導く表出と構造的にも通じており、この種の歌がずっとうたい継がれていたことが窺え、『万葉集』と『古今集』の世界が一続きであるのが理解できます。
3538の「広橋」は、幅の広い橋で、普通名詞。「馬越しがねて」は、馬で越すことができなくて。おそらくは人目を憚って越せないのを馬に転化しているのでしょう。「心にみ」は、気持ちだけは。「妹がり遣りて」は、妻のもとに遣って。「我はここにして」は、我が身はここにあって。女に贈った歌であり、疎遠にしている言い訳です。なお、左注には、或る本の発句には「小林に駒を馳(は)ささげ」というとあり、「林の中に馬を走り込ませてしまって」という意味になります。何のかんのと言い訳をしている不実な男です。
3539の「崩岸」は、今にも崩れそうな崖の意の東語。上2句は「危ほか」を導く譬喩式序詞。「危ほかど」は「危ふけど」の東語。「息に我がする」の「息」は「息の緒」と同じで「命」の意。「息に我がする」は、連体形止めの詠嘆終止で、命がけで私は思っている。「息」は、魂(生命力)の具体的な活動として意識されていたので、このような表現がなされます。人妻との密通の不安とあきらめきれない思いとが強く交錯しており、このような痛切な思いの直接的な吐露は、東歌ならではの表現です。

おほ
オホは、オボロ(朧)、オボメクのオボと同根で、明瞭でない状態、ぼんやりとした様を示す形状言。霞や霧などを比喩として、視覚の不確かさ、不分明さを示すことが多い。また、いい加減なさま、通り一遍なさま、なおざりなさまを示すこともある。
オホホシは、オホから派生した形容詞で、不十分な状態を示すとともに、それを歌い手の不安定な心情、晴れやらぬ思いに結びつける。ここでも霞や霧が比喩に用いられることが多い。オホツカナシも、オホから派生した形容詞だが、やはり対象のぼんやりしたありかたから生ずる不安や頼りなさを示す。オホロカも、やはりオホから派生した形容動詞で、この場合は、いい加減なさま、通り一遍なさまを示すところに意味は限定される。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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ミ語法
「ミ語法」とは、形容詞の語幹に語尾「み」を接続した語形を用いる語法。その意味は、「を」を伴うものは「を」が主格を表わし、「み」が原因や理由を表わすと考えられています。現存する文献の用例の大部分は『万葉集』であり、 上代以前に広く用いられたと考えられています。 中古以降は、擬古的表現として和歌にわずかに用いられました。
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