本文へスキップ

巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3550~3553

訓読

3550
押(お)して否(いな)と稲(いね)は搗(つ)かねど波(なみ)の穂(ほ)のいたぶらしもよ昨夜(きそ)ひとり寝て
3551
阿遅可麻(あぢかま)の潟(かた)にさく波(なみ)平瀬(ひらせ)にも紐(ひも)解くものか愛(かな)しけを置きて
3552
松が浦に騒(さわ)ゑ群(うら)立(だ)ち真人言(まひとごと)思(おも)ほすなもろ我(わ)が思(も)ほのすも
3553
味鴨(あぢかま)の可家(かけ)の湊(みなと)に入る潮(しほ)のこてたずくもが入りて寝(ね)まくも

意味

〈3550〉
 あえて嫌だといって稲を搗いているのではないけど、心が動揺して落ち着かないのです。昨夜は独り寝だったので。
〈3551〉
 阿遅可麻の潟に激しく裂かれる波のように激しく迫られても、静かな瀬のように言い寄られても、下紐を解くものですか、愛しいお方をさしおいて。
〈3552〉
 松が浦に波のざわめきがしきりに立っていて、そんなざわついた世間の噂をあの人は気にしておられるようだ。この私も思っているのと同様に。
〈3553〉
 安治可麻の可家の河口に入ってくる潮が緩やかなように、人の噂もおだやかであってほしい。あの娘の家に入って共寝したいから。

鑑賞

 3550の「押して否と」は、あえて嫌だといって。「稲搗き」は、木製の臼に稲(籾)を入れ、脱穀するために竪杵(たてきね)で搗く作業。「波の穂」は、波がしらのことで、「波の穂の」は、波がしらが激しく動くことから「いたぶらし」に掛かる枕詞。「いたぶらし」は、心が動揺して落ち着かない。「もよ」は、詠嘆の終助詞。女が稲を搗いているところへ夫がやって来て早く寝ようと言うのに、女は嫌だと言ってなおも稲を搗いています。なぜなら、昨夜男が来ると思っていたのに来なかったのを恨んでいるからです。拗ねて稲を搗き続けていたのが、やがて言い訳として言い出したもののようです。一方、この「否」を、男への拒絶ではなく稲を搗くことを否定すると取り、稲搗きが嫌なわけではないが、と取る方が妥当だとする見方があります。土屋文明は、「実は稲つき労働に対する苦痛を言ひたいのだが、その労苦も、昨夜男とさへ寝て居たら、こんなには感じまいと、その方に転嫁させてゐるのである。或はさう歌ふことだけで、幾分苦痛を軽く感じさせるのであらう。性的感情によって労働苦を和げようとする典型的な、純然たる労働歌である」と言っています。

 3551の「味鴨の」は、アジカモの棲んでいる所の意で「潟」に掛かる枕詞。「潟に開く波」は、潟に裂かれる波。「潟に咲く波」として、砕ける波を咲き開く白い花に見立てる解釈もあります。上2句は「開く(さく・ひらく)」の同音で「平瀬」を導く序詞。「平瀬」は、波の静かな瀬。「紐解くものか」の「ものか」は、反語。「愛しけ」は「愛しき」の東語で、愛しい人。「置きて」は、さしおいて。なお、3句以下の解釈を「平瀬にも波が紐解くように、私も下紐を解くことなのか。愛しい人をさしおいて」のようにするものもあり、上掲の解釈だと女の歌であるのに対し、こちらの解釈だと男の歌になります。

 3552の「松が浦」は地名と見られますが、所在未詳。「騒ゑ群立ち」の原文「佐和惠宇良太知」で難解とされますが、波が騒いで群がり立つようにの意か。人の噂の高いことの譬喩と見られます。「真人言」の「真」は接頭語で、世間の噂。「思ほすなもろ」の「思ほす」は「思ふ」の尊敬語、「なもろ」は「らむよ」の東語で、お思いになるであろう。「我が思ほのす」の「思ほのす」は「思ふなす」の東語で、私が思っているように。男と関係を結んだ女が、その関係が村の噂になって当惑している男を、慰めて贈った女の歌です

 3553の「味鴨」は「可家の水門」の枕詞。「可家」は、所在未詳。「湊」は、河口。「入る潮の」は、ひたひたとさして来る潮のように。上3句は、結句の「入りて」に掛かる序詞。「こてたずくもが」の「こてたずく」は語義未詳ながら、噂が静まってほしい、改めて言い立てることがあろうか、穏やかに、の意とするなど、さまざまな説があります。「もが」は、願望の終助詞。「入りて寝まくも」の「寝まく」は「寝む」のク語法で名詞形。寝床に入って寝たいものだなあ。
 


こと(言・事)

 言葉を意味する「言(こと)」と事柄を意味する「事」とは、元来相通じる概念であった。モノが言葉による認識以前に存在するのに対して、コト(事)は言葉による認識作用・形象作用によってこそ形を与えられるためである。

 『万葉集』の相聞歌にしばしば歌われる「人言(ひとごと:周囲の噂)」の多くが、原文に「人事」と記されているのも、「言」と「事」とが相通じる概念であったことを示しており、現代において「さっき話したこと、絶対内緒だよ」などと言った場合の「こと」が言葉であるのか事柄であるのか不明瞭である点にも、それは引き継がれている。

 「言」と「事」とが相通じるところに生じてくる信仰に「言挙げ」がある。「言挙げ」とは、日常の言葉とは異なる様式によって、祈りをこめて言葉を発することであり、「言挙げ」の力によって「言」として発された内容が「事」として実現するという信仰である。その言葉に「言霊(ことだま)」が宿っているからだと考えられていた。ただし、言語呪術である「言挙げ」はむやみに行うものではなかった。「言挙げ」はよほどの危機を乗り越えるために行われるものであったようである。

 一方で『万葉集』には、「言」が「事」でなかったことを言う「言にしありけり(ただの言葉だったのだ)」という表現もしばしば用いられている。一見矛盾のようにも見えるが、両者は硬貨の裏表に過ぎない。一方に「言」が必ずしも「事」ではない意識が芽生えることによって、逆に「言」には言霊が宿り、「事」によって実現するという信仰が強く意識されるようになったのである。

~『万葉語誌』から抜粋引用

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。