| 訓読 |
3562
荒礒(ありそ)やに生(お)ふる玉藻(たまも)のうち靡(なび)きひとりや寝(ぬ)らむ我(あ)を待ちかねて
3563
比多潟(ひたがた)の礒(いそ)の若布(わかめ)の立ち乱(みだ)え我(わ)をか待つなも昨夜(きそ)も今夜(こよひ)も
3564
小菅(こすげ)ろの浦(うら)吹く風の何(あ)どすすか愛(かな)しけ児(こ)ろを思ひ過ごさむ
3565
彼(か)の児ろと寝(ね)ずやなりなむはだ薄(すすき)宇良野(うらの)の山に月(つく)片寄るも
3566
我妹子(わぎもこ)に我(あ)が恋ひ死なばそわへかも神(かみ)に負(お)ほせむ心知らずて
| 意味 |
〈3562〉
あの荒磯に生える藻のように、黒髪を靡かせてあの子はひとりで寝ていることだろう、私を待ちかねて。
〈3563〉
比多潟の磯のわかめが立ち乱れて繁るように、門に立って身も心も乱れて私を待っているのだろうか、昨夜も今夜も。
〈3564〉
この小菅の浦を吹いて行く風のように、いったいどのようして、愛しいあの娘のことをやり過ごしたらいいのか。
〈3565〉
今夜はあの子と共寝することなく終わりそうだ。はだすすきの繁る宇良野の山に月が傾いてきた。
〈3566〉
愛しいあの娘に恋い焦がれて死んだなら、周りの人は神の祟りのせいにするだろうか。私の本心も知らないまま。
| 鑑賞 |
3562の「荒磯やに」は、荒磯に。「や」は整調の間投助詞。「生ふる玉藻の」は、生える美しい藻のように。「うち靡き」の「うち」は、接頭語。「ひとりや寝らむ」の「や」は疑問、「らむ」は現在推量。「我を待ちかねて」は、私を待ちきれなくなって。「かねて」は、~することができず、~しきれず、という意味で、切ない待望の情景を締めくくります。妻の許に行けなかった男が、妻の独り寝の姿を想像して恋しく思っている歌と見えます。
3563の「比多潟」は、所在未詳。「磯の若布の」は、磯の若布のように。ここまでの2句は「立ち乱え」を導く譬喩式序詞。「立ち乱え」は、門に立って思い乱れて。「立ち」は接頭語との見方もあります。「乱え」は「乱れ」の東語。「我をか待つなも」は、私を待っているであろうか。「か」は疑問の係助詞、「待つなも」は「待つらむ」の東語で、方言的な活用・語法で結んでいる形。もしくは、「我をか待つ(連体形)」で一旦結びの形をとったあとに、詠嘆の「なも」が添えられた形とも考えられます。女の許へ二晩続けて行けない男の気持ちをうたっています。
3564の「小菅ろの浦」は、地名(所在不明)ではなく「小菅の末(菅の葉先)」とする説もあります。最初に地名説を出したのは賀茂真淵で、今の東京都葛飾区小菅町あたりだといい、今は海から遠い地ですが、当時はその辺まで海だったかもしれません。「ろ」は接尾語。「何どすすか」の「あど」は「何と」の東語、「すすか」は「しつつ」の東語で、どのようにしつつ。「愛しけ児ろを」の「愛しけ」は「愛しき」で、愛しいあの子を。恋の断念を強いられる状況の中で、それでもなお思い切れない男の気持ちをうたっている歌です。
3565の「彼の児ろと」は、あの娘と。「児ろ」は、東国方言で「児」に親愛の接尾辞「ろ」がついた形。「彼の」という語は初出であり、「この・その」に比べて後れて発生した詞で、用いる機会が少なかったからだろうとされます。「寝ずやなりなむ」は、寝られなくなるだろうか。「や」は疑問の係助詞で、「なりなむ」の「む」が推量の助動詞「む」の連体形による結び。「はだ薄」は、穂を出した薄で、そのほぼ同意語の「末(うら)」として「宇良野」に掛けた枕詞。「宇良野」は、長野県上田市浦野か。そうだとすれば信濃の国の歌ということになりますが、分布の広い地名であるため決めかねたのかもしれません。「月(つく)」は、月の東語。「片寄る」は、傾く。女の許に向かっている男が、月が傾いたのを見て、行き着いたら夜明けになるのではないかと焦っている歌です。万葉の恋人たちはどんなにお熱い中でも、会えるのはひと月に十日くらいがせいぜいだったといいます。その理由はすべて月にあり、三日月の頃から通い始め、闇夜では会うことができなかったのです。
3566の「我が恋ひ死なば」は、私が恋い焦がれて死んだならば。「そわへ」は他に用例のない語で、語義は定まらず、「傍辺」として、周囲の人々の意とするほかに「五月蠅(さばへ)」「添えない」「かこつける」意とする説など様々あります。「かも」は、疑問の係助詞。「神に負せむ」の「負せむ」はその結びの連体形で、神のせいにすることだろうか。「心知らずて」は、私の本心も知らないで。相手の冷淡さや無理解を、あえて「神」を引き合いに出して表現しており、窪田空穂は、「『神に負せむ心知らずて』は、死なせるのはあなたであるのに、それを神様のせいにしようから、あなたは当然神罰をこうむることだろうの意で、甚しい威嚇である。恋に死なせるという感傷よりの威嚇は、後世には少なくないものであるが、それに神を引合いに出すのは稀れである」と述べています。

あら(荒・現・新)
アラは多く「荒」の文字で表記される。その「荒」は、通常、接頭辞的な語素として他の名詞と複合する。「荒野」「荒海」「荒磯」などがその例になる。「荒野」のアラには、荒涼とした、荒れ果てた野の印象がうかがえるが、「荒海」「荒磯」などのアラには、むしろ勢いの激しさが感じられる。古橋信孝は、このようなアラを「本来は始原的な、霊力が強く発動している状態をあらわす言葉」であるとする。「荒野」は、開墾されていない野だが、そこはむしろ「霊威が強くて近づいてはいけない野」であり、それゆえ、人間から見れば荒涼とした、荒れ地として捉えられることになる。「荒磯」についても、岩に勢い激しく打ち寄せる白波が、海の神の霊威を強く現すような場であるとする。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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