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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3567~3571

訓読

3567
置きて行かば妹(いも)はま愛(かな)し持ちて行く梓(あずさ)の弓の弓束(ゆづか)にもがも
3568
後(おく)れ居(い)て恋(こ)ひば苦しも朝狩(あさがり)の君が弓にもならましものを
3569
防人(さきもり)に立ちし朝明(あさけ)の金門出(かなとで)に手離(たばな)れ惜しみ泣きし児(こ)らはも
3570
葦(あし)の葉に夕霧(ゆふぎり)立ちて鴨(かも)が音(ね)の寒き夕(ゆふへ)し汝(な)をば偲(しの)はむ
3571
己妻(おのづま)を人の里に置きおほほしく見つつそ来(き)ぬるこの道の間(あひだ)

意味

〈3567〉
 後に残して行けば、この先お前のことが恋しくてたまらなくなるだろう。せめて手に携える梓の弓の弓束であってくれたらなあ。
〈3568〉
 あとに残され、恋い焦がれるのは苦しくてたまらないでしょう。朝の狩りにあなたが使う弓にでもなりたい。
〈3569〉
 防人として出立した夜明けの門出の折に、握り合った私の手から離れることを嫌がって泣いたわが妻よ。
〈3570〉
 水辺に生える葦の葉群れに夕霧が立ち込め、鴨の鳴く声が寒々と聞こえてくる夕暮れ時には、なおいっそうおまえを偲ぶことだろう。
〈3571〉
 自分の妻なのに、自分のいない里に残したまま、気も晴れず、何度も何度も振り返りながらこの道中をやって来た。

鑑賞

 巻第14の「東歌」の終わり近くに「防人の歌」の小題で掲げられた5首が載っています。巻第14の中には他にも防人の歌と思われるもの(3480・3516・3528など)がありますが、編纂者が用いた資料に、この5首が「防人歌」として分類されていたからだと思われます。いずれの歌も、巻第14の他のすべての歌と同様、作者名も詠まれた年月も記されていません。

 3567・3568は、防人として旅立つ夫と、その妻の問答歌です。3567の「置きて行かば」は、あとに残して行ったならば。「妹はま愛し」の「ま」は接頭語で、妻が恋しい、愛しい。「持ちて行く」は、手に持って行く。「梓」は、日本各地の山中にあるカバノキ科の落葉喬木で、「梓の弓」はその材で作った弓。「弓束」は、弓の中央部の手に握る部分。「にもがも」の「もがも」は願望で、~であってほしいものだ。肌身離さず持っていたいという究極の愛着を、当時最も身近で大切な道具であった「弓」に投影しています。

 3568の「後れ居て」は、あとに残って。「恋ひば苦しも」は、恋い慕うのは苦しいことよ。「ば」は順接の仮定条件、「も」は詠嘆。「朝狩の」は、朝にする狩りので、「弓」の枕詞。。「君が弓にもならましものを」は、あなたの弓にでもなれたらよいのになあ。「まし」は希望・反実仮想の助動詞、「ものを」は逆接・詠嘆の終助詞。当時の東国において、弓は男性にとって最も身近な携行品であり、魂の一部ともみなされていました。女が「弓になりたい」と願うのは、単に近くにいたいというだけでなく、あなたの体の一部として運命を共にしたいという、非常に深い献身と一体感の表明です。

 3569の「防人に立ちし」は、防人として出発したの意。「立ち」は旅立ちを指します。「朝明」は「朝明け」の略で、朝、明るくなる頃、夜明け方。「金門出に」の「金門」は、頑丈な門、あるいは愛しい人の家の門を美称として呼んだもので、門出の折に、の意。「手離れ惜しみ」は、握り合った手を離すことを嫌がって。「児ら」は、女性を親しんで呼ぶ語。「はも」は、詠嘆の終助詞。この歌について佐佐木信綱は、「かたく取り交わした手を離した、可憐な妻は声をあげて泣いた。それを見捨てて立ち出た若き防人の追想、千載の後にも人の胸を打つ」と評しています。

 3570は、筑紫へと出航する難波の地での心情を想像して作った歌、またはそのような設定で創作された歌とされます。「葦」は難波の風物であり、また葦には「鴨」がつきものでした。「夕し」の「し」は、強意の副助詞。「汝をば偲はむ」は、お前のことが偲ばれるだろう。この歌は、防人らしくない整った詠みぶりであり、賀茂真淵は「東(あづま)にもかくよむ人も有りけり」と感心していますが、土屋文明は、「かういふのは、多くの人の次々の修正を受けて、いはば社会的製作として、此の整った姿に到達し得たものだらう」と述べています。文武天皇の御代に志貴皇子が詠んだ「葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ」(巻第1-64)の歌によく似ています。

 3571の「人の里」は、自分のいない里。「おほほし」は、視覚的にぼんやりしているさま、心理的には心が晴れない、不安という意。「見つつぞ来ぬる」は、何度も振り返りながらやって来た。「この道の間」は、この道中を。他人ばかりの村に置いてきた妻の心変わりを不安に思っている歌のようです。まだ同居の段階にいず、妻問いのかたちの関係だったのでしょう。窪田空穂はこの歌について、「技巧はしっかりしていて、防人としては知性的な、やや身分ある者の歌と取れる」と言っています。 

 防人は、663年に百済救済のために出兵した白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのを機に、対馬・壱岐・筑紫の防衛のため、軍防令が発せられて設置されました。天智天皇3年(664年)に「対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く」と具体的に述べられており、ここでは「防」の一字が使われています。それに基づいて大宰府に防人司(さきもりのつかさ)が置かれ、おもに東国の出身者の中から選抜、定員は約1000名、勤務期間は3年とされました。但し、平安時代になると次々に廃止されましたから、主として飛鳥時代後期~奈良時代に実施された制度です。

 防人の徴兵は、逃げたり仮病を使ったりさせないため、事前連絡もなく突然に行われたといいます。まず都に集め、難波の港から船で筑紫に向かいました。家から難波までの費用は自前でした。なお、『万葉集』に防人の歌が数多く収められているのは、当時、出港地の難波で防人の監督事務についていた大伴家持が、彼らに歌を献上させ採録したからだといわれます。ただ、ここにある防人歌は、家持が収集した巻第20にあるものとは別に、「東歌」の歌群にある歌で、別の機会に作られたものとみられています。また、防人歌に顕著な東国方言がまったく見られないことから、第三者が、防人の境遇に身を置き換えて作ったものかもしれません。
 


防人歌について

 防人歌は東歌の中にも数首見られますが、一般には巻第20に収められた84首を指します。これらは天平勝宝7年(755年)に、諸国の部領使(ことりづかい:防人を引率する国庁の役人)に防人らの歌を進上させ、当時、兵部少輔(兵部省の次席次官)の官職にあり、防人交替業務を担当していた大伴家持が選別して採録しました。なぜ組織的にそのようなことが行われたかについては、防人たちの心情を伝える記録として、防人制度検討に際しての参考資料とするためだったようです。当時の兵部省の長官は橘奈良麻呂で、その父は左大臣の諸兄でしたから、諸兄から奈良麻呂を通じて、家持に防人歌収集の命が下された可能性があります。一方で、家持自身が、父の旅人以来の防人廃止を願う執念から、防人の窮状を訴える歌を収集したとする意見もあります。

 なお、防人歌は長歌1首を除き、東歌と同様にすべてが完全な短歌形式(5・7・5・7・7)で一字一音の音仮名表記による統一した書式になっているところから、家持に進上されるまでに役人の手が加わった可能性が高く、さらには家持による改作が行われた跡が窺える点には留意すべきです。とはいえ、防人たちの根本の発想や気持ちを伝える歌であることには違いありません。

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古典に親しむ

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