| 訓読 |
3580
君が行く海辺(うみへ)の宿(やど)に霧(きり)立たば我(あ)が立ち嘆く息(いき)と知りませ
3581
秋さらば相見(あひみ)むものを何(なに)しかも霧に立つべく嘆きしまさむ
3582
大船(おほふね)を荒海(あるみ)に出(い)だしいます君(きみ)障(つつ)むことなく早(はや)帰りませ
3583
真幸(まさき)くて妹(いも)が斎(いは)はば沖つ波(なみ)千重(ちへ)に立つとも障(さは)りあらめやも
| 意味 |
〈3580〉
旅の途上の海辺の宿に霧が立ち込めたなら、私が門に立ち出てはため息をついていると気づいて下さい。
〈3581〉
秋になったら必ず逢えるのに、どうして霧となって立ち込めるほどに嘆かれるのか。
〈3582〉
大船を荒海に出して旅行きなさろうするあなた。どうか何の禍もなく、早くお帰りなさいませ。
〈3583〉
あなたが無事でいてくれて、身を清めて神に祈っていてくれれば、沖の波がどれほど激しく立とうとも、旅の支障は何もないことよ。
| 鑑賞 |
遣新羅使人の歌。3580・3581は、前に続き悲別贈答歌の2組目。3580は、遣新羅使として旅立つ夫を送り出す妻の歌、3581は、それに答えた夫の歌。3580の「宿」は、夜は船を海岸に繋ぎ、上陸して宿るときに建てる仮小屋。「霧立たば」は、もし霧が立ったなら。「我が立ち嘆く」は、じっと立ったまま、絶望して溜息をつく様子。「息と知りませ」の「ませ」は、敬語の助動詞「ます」の命令形。私の吐息だと思ってください(知ってください)。3581の「秋さらば」は、秋になったら。当初の予定では、秋には帰朝できるものとされていたことによります。「何しかも」の「し」は強意、「かも」は疑問の係助詞で、どうして~か。「嘆きしまさむ」の「しまさむ」は「せむ」の敬語で、女性に対しての慣用の語。お嘆きになるのでしょうか。
当時の船旅は現代とは違い、たいへん危険なものでしたから、海上に霧が立ち込めると、視界が悪くなり安全を保てなくなります。夫を待つ妻の心の不安が霧という形で表現されていますが、一方で、古代の人たちは、吐息には魂が宿り、霧になると考えていました。愛する人を想うあまり、その溜息が物理的な「霧」となって、数百キロ離れた夫の寝所を包み込む。この発想は、現代の私たちが読むとロマンチックですが、万葉人にとっては切実な「生霊」にも似た執念の表現です。そんな妻に対して夫は、事なげに言って妻を安心させようとしており、窪田空穂は、「この軽く言い去っていることがすなわち温情なのである。陰影を持った歌である」と述べています。この時の使節は、夏の4月に出発する予定でしたが、気候の影響からか、出航は6月にずれ込んでしまったのでした。
3582・3583は、悲別贈答歌の3組目で、3582は、妻が夫の道中の無事を祈った歌、3583は、夫がそれに答えた歌。3582の「大船」は、使節団の公船。「荒海(あるみ)」は「あらうみ」の約。瀬戸内海からさらに先の玄界灘、朝鮮海峡など、命を脅かす外海を指します。「います」は「行く」の敬語。「障むことなく」の「障む」は、障害があること。病気、怪我、海難、あるいは新羅との外交トラブルなど、旅を妨げるあらゆる災難。「早帰りませ」の「ませ」は、敬語の助動詞の命令形。早く帰ってきてください。
3583の「真幸くて」の「真」は、真に、の意の接頭語。「幸くて」は、無事で。これは妹の状態を言っているもの。「斎ふ」は、身を清めて神に祈ること。「沖つ波」は、沖の波。「つ」は、上代のみに用いられた古い連体格助詞。「千重に立つとも」は、(波が)千重にも重なって押し寄せてきても。「障りあらめやも」の「や」は反語、「も」は詠嘆。障りがあろうか、ありはしないことよ。このように旅に出る者が家に残る者の無事に関心を注ぐ例は他にも見られ、留守の者が「ま幸く」ことこそが旅行く者の安全を招く基本であったようです。
なお、『万葉集』には、防人歌以外には、父母が旅の無事を祈る歌はなく、都人の旅の歌は、恋人や妻と離れる辛さを詠むという共通性をもっています。父母にとってもその辛さや嘆きは同じであったはずなのに、不自然にもそれが見当たらないのは、旅の歌にあっては妻や恋人への思いを詠むものであるという共通の了解が成立していたことが分かります。それが旅の歌における美意識とされたようなのです。

いはふ(斎ふ)
イハフは、願いの実現を意図して行う呪的行為(呪術、おまじない)をいう。ただし他に危害を与えるなど、好ましくない願いは見られない。語源的には、神聖・禁忌を意味する接頭語イにハフが付いたものと考えられる。
同じくイに関わる動詞にイム(忌む)があるが、イハフが願いの実現を意図して何かを行うのに対して、イムは逆に凶事を恐れて何かを行わないことを意味する点が異なる。イハフが主として積極的行動であるのに対し、禁忌を侵さず、穢れを避け、身を慎むことをいう。
ただし、次の歌を見ると、イムとイハフが重なり合う語であることもわかる。「櫛も見じ屋内も掃かじ草枕旅行く君を斎ふと思ひて」(巻第19-4263)。妻の立場から入唐使へ贈った壮行歌で、「櫛を見ることもしない、家の中も掃かない、旅行くあなたを『いはふ』と思って」くらいの意である。この歌では髪を梳かさない、家の中を掃かないことが旅人の無事をイハフこととされている。旅立ちの状態をそのまま保つことで旅人の無事の帰還を願うのだが、それが状態を変えることを禁忌とする意識と裏腹である点が注目される。また、神社などの神聖・清浄を保つことをイハフと言った例もみられる。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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