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巻第15(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第15-3584~3588

訓読

3584
別れなばうら悲(がな)しけむ我(あ)が衣 下(した)にを着(き)ませ直(ただ)に逢ふまでに
3585
我妹子(わぎもこ)が下(した)にも着よと贈りたる衣の紐(ひも)を我(あ)れ解(と)かめやも
3586
我(わ)が故(ゆゑ)に思ひな痩(や)せそ秋風の吹かむその月(つき)逢はむもの故(ゆゑ)
3587
栲衾(たくぶすま)新羅(しらき)へいます君が目を今日(けふ)か明日(あす)かと斎(いは)ひて待たむ
3588
はろはろに思ほゆるかも然(しか)れども異(け)しき心を我(あ)が思はなくに

意味

〈3584〉
 お別れしたら、さぞもの悲しいことでしょう。私のこの着物を肌身に着ていらしてください、直接お逢いできる日が来るまで。
〈3585〉
 愛しいお前が、肌身離さずといって贈ってくれたこの着物の紐、それを解くことなどということは決してないだろう。
〈3586〉
 私のために思い悩んで痩せたりなどしないでおくれ。秋風が吹き始めるその月には、きっと逢えるのだから。
〈3587〉
 はるばる新羅の国へお出かけになるあなたにお逢いできる日を、今日か明日かと、身を清めてはずっとお待ちしています。
〈3588〉
 遙か遠くにいらっしゃると思われるけれども、移り心などを抱こうなどとは、私は決して思いません。

鑑賞

 遣新羅使人の歌。3584・3585は悲別贈答歌の4組目で、3584が妻の歌、3585が夫の歌。3584の「うら悲しけむ」の「うら」は、心、すなわち人間の内面を示し、しばしば心情を示す形容詞や動詞と複合語をなします。「うら泣く」「うら悲し」「うら恋ひ」など。「下にを」は、夫の肌に直接添わせる意と、人目に目立たないようにとの意を含んでいます。「けむ」は、推量の助動詞。「着ませ」の「ませ」は、敬語の助動詞で、命令形。妻がその身に着けている衣を夫に着せようとするのは、自身の霊を夫の身に添わせようとする、上代の信仰によるものであり、また、互いの心を結びこめた形見の着物の紐を解かない限り、別れた者同士の再会は実現すると考えられていました。「直に」は、直接に。

 
3585では、夫は「衣の紐を我れ解かめやも」と言って、妻の霊を身から離すことはない、また、旅先で紐を解かないということは、他の誰とも通じないということでもあり、妻への貞操を守り通すことを固く誓っています。「やも」の「や」は、反語。「も」は詠嘆。

 なお、3584の「うら悲し」の語は集中に6例見られ、そのうち3首が
大伴家持の歌(巻第8-1507、巻第19-4177、4290)、2首が巻第15に見えます(もう一つは3752)。家持好みの言葉であったことが知られており、巻第15の随所に家持の脚色が加わっていると見る立場にとっては留意すべきことの一つとなっています。

 3586~3588は悲別贈答歌の5組目(最終組)で、
3586は、妻を慰めて安んじさせようとする夫の歌。「我が故に」は、私のせいで、私のために。「な痩せそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「秋風の吹かむその月」とあるのは、帰朝は秋になると予定していたことによります。「逢はむもの故」は、逢えるはずなのだから。夫は、旅の性質には触れず、ただ速やかに帰ってくることだけを言っています。窪田空穂は、「男性的な心からの柔らかい歌であり、『故』という語が二回まで用いられているが、よくこなれて、むしろ調子を助けるものとなっている」と述べています。

 3587・3588は、それに妻が答えた歌。
3587の「栲衾」の「栲」は、楮(こうぞ)でその繊維で織った衾が白いところから、色が白い意で「新羅」の同音反復的枕詞としたもの。また、衾は夜具であるため、独り寝の寂しさというニュアンスが背景に忍び込んでおり、白い布の冷たさと、主のいない寝所の静けさが、歌の導入部から漂っています。「います」は「行く」の敬語。「君が目」は、あなたの目の意から転じて、あなたに逢うこと(目まみること)。「今日か明日か」は、今か今かと待ちわびる様子。「斎ふ」は、吉事を祈って禁忌を守る。「待たむ」の「む」は、上の「か」の係り結びで連体形。

 
3588の「はろはろ」は「はるばる」の古語で、遥かに遠いさま。「思ほゆる」は、自然と思えてしまう、感じてしまう。「然れども」は逆接で、距離が遠いという事実はあるが、しかし。「異しき心」は、あだし心、夫に背く心。「思はなくに」は、思わないのであるよ。「なくに」の「なく」は打消の助動詞「ず」の名詞形、「に」は詠歎。当時の夫婦は別居で、関係も秘密にしている場合が多かったため、しばしばこうした誓いの歌が詠まれています。もっとも、この夫妻は相応の身分があり、秘密の間柄にある夫婦ではなかったはずですが、場合が場合なだけに、あえて誓いの歌を詠んで、夫の心を慰めたものとみえます。

 以上11首(3578~3588)の悲別贈答歌は、ストーリーの展開が認められることから、複数の夫婦の贈答ではなく、一夫婦の悲別の図を示したものとの見方があります。また、女の歌に始まって女の歌で終わるこの歌群において、3588がそのまとめをなす歌であり、夫をひたすらに待つ女心に力点を置いて据えられているとされます。

 遣新羅使のとった航路については正史にはほとんど記載がないものの、『万葉集』の巻第15に収められている歌によって、天平8年(736年)の阿倍継麻呂大使率いる遣新羅使一行の行程がある程度分かっています。難波を出航し、瀬戸内海を西進 →敏馬浦(神戸市)→玉の浦(倉敷市)→鞆の浦(福山市)→長井の浦(三原市)→風早浦(東広島市)→倉橋島(呉市)→分間浦(中津市)→筑紫館(福岡市)→韓亭(能古島)→引津亭(糸島市)→神集島(唐津市)→壱岐島 →浅茅浦(対馬市)→竹敷浦(対馬市)→新羅へ。
 


『万葉集』に載る遣新羅使について

 巻第15の前半は、天平8年(736年)に新羅国(朝鮮半島南部にあった国)に外交使節として派遣された使人たちの歌が145首収められており、その総題として「遣新羅使人ら、別れを悲しびて贈答し、また海路にして情をいたみ思を陳べ、併せて所に当りて誦ふ古歌」とあります。

 使節団の人数は総勢200人前後だったとみられ、歌が詠まれた場所をたどっていくと、難波を出航後、瀬戸内の各港や九州の能古島、対馬などを経て新羅に向かったことがうかがえます。天智7年(668年)から始まった遣新羅使は約3世紀にわたって派遣されましたが、これらの歌が詠まれた時(天平8年:736年)の新羅国と日本の関係は必ずしも良好ではなかったため、使節の目的は果たせなかったばかりか、往路ですでに死者を出し、帰途には大使の阿倍継麻呂(あべのつぎまろ)が病死するなど、払った犠牲に対し成果が得られなかった悲劇的な使節でした。

 この一行には、副使として、大伴家持の同族である大伴御中(おおとものみなか)も加わっており、同人が作った歌も2首含まれています。遣新羅使人らの歌は、御中が記録し、後に家持らに伝わったものとみられています。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。