| 訓読 |
3617
石走(いはばし)る滝(たき)もとどろに鳴く蝉(せみ)の声をし聞けば都し思ほゆ
3618
山川(やまがは)の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも
3619
礒(いそ)の間ゆたぎつ山川(やまがは)絶えずあらばまたも相(あひ)見む秋かたまけて
3620
恋(こひ)繁(しげ)み慰(なぐさ)めかねてひぐらしの鳴く島蔭(しまかげ)に廬(いほ)りするかも
3621
我(わ)が命を長門(ながと)の島の小松原(こまつばら)幾代(いくよ)を経てか神(かむ)さびわたる
| 意味 |
〈3617〉
岩にとどろく激しい流れのように、しきりに鳴き立てる蝉の声を聞くと、都が恋しく思われる。
〈3618〉
山あいの清らかな川瀬で遊んでみたけれど、奈良の都はどうしても忘れることができない。
〈3619〉
岸辺の岩の間を激しく流れる谷川が絶えないように無事でいられたら、また重ねて相見えよう、秋になって。
〈3620〉
故郷の妻恋しさに気が晴らせないまま、ひぐらしが鳴くこの島陰で仮の宿りをしている。
〈3621〉
我が命よ長かれと願う、長門の島の松原は、いったい幾代を経てあのように神々しくあり続けているのだろう。
| 鑑賞 |
遣新羅使人の歌で、安芸国の長門の島の磯辺に停泊して作った歌。「長門の島」は、前の風早の浦から約45km西の呉市南の倉橋島。島の西南端の岬には今も長門崎の名が残っています。瀬戸内海交通の要衝で、古くから造船の島としても有名で、推古天皇の代から奈良時代にかけて、外国使節団用の船を数多く造ったという記録があります。遣新羅使の船もここで造られたり、修理されたりした可能性が高いと言われています。倉橋島と対岸の呉市警固屋(けごや)との間の音戸の瀬戸は、もと浅瀬や岩礁であったのを平清盛によって開かれたといわれるので、この時代は倉橋島の南岸を泊地としていたようです。風早の浦からは、好天であればほぼ一日の航程に当たります。ここの5首は、7月下旬の詠とされます。
3617は、大石蓑麻呂(おおいしのみのまろ)の歌。大石氏は渡来系の一族で、蓑麻呂は、天平18年(746年)頃、東大寺の写経師として出仕していたことが知られます。「滝」は、漢語として急流、激流を表し、タギルと同根の語。現在の滝に相当する語は「垂水」。「とどろに」は、高く鳴る意の副詞。「声をし」「都し」の「し」は、強意の副助詞。「思ほゆ」は、思われる。久しぶりに陸上で聞く蝉時雨に、毎年都で蝉が盛んに鳴いていたのを思い起こしています。
3618の「山川」は、山にある川で、上の歌の「石走る滝」と同じ流れと見られます。「遊べども」とあるので、酒宴を設けたものかもしれません。「忘れかねつも」は、忘れられないことだ。自分の意志ではどうにも制御できない感情(=忘れたいのに忘れられない)を強調する表現です。遣新羅使たちにとって、奈良の都は単なる居住地ではなく、文明、秩序、そして何より安心の象徴でした。彼らがこれから向かうのは、荒波の玄界灘や異国という未知の世界です。死の危険すらある旅路の中で、執拗に都を思うのは、彼らが抱えていた根源的な不安の裏返しとも言えるでしょう。
3619の「間ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。間を通って。「またも相見む」の解釈は、再びこの山川の景色を見ようとする説と、再び故郷の妹を見ようとする説に分かれていますが、重ねて、の意の「また」は、初めて出逢った対象について再度逢う意に用いるのが原則であり、馴れ親しんだ故郷の妻に対していうのは不自然との指摘があります。「秋かたまけて」の「かたまく」は、季節や時期を待ち望む意。当初は秋に帰朝できるとの予定でしたが、この時は既に真夏の盛りになっています。
3620の「恋繁み」は、恋しさが募り、心が乱れて。「慰めかねて」は、この苦しい心を抑えることができなくて。「廬りするかも」の「廬り」は、仮の宿り。「かも」は、詠嘆。当初は秋に帰朝できるとの予定でしたが、この時はすでにヒグラシの鳴く真夏の盛りになっています。『万葉集』において、ヒグラシは、夕暮れや秋を象徴する生き物です。その「カナカナ・・・」という独特の鳴き声は、古来、人々の心をかき乱し、寂しさを誘うものとされてきました。
3621の「我が命を」は、長くあれかしの心で「長門」にかけた枕詞。「小松原」は、松の木が生い茂る林。「幾代を経てか」の「か」は、疑問の係助詞。どれほど長い年月を経て。「神さびわたる」は、年を経て神々しくなる。上の「か」を受けて連体形の結びになっており、感動の強調と視覚的な広がりを生む余韻を醸しています。長門の島の松を賛美することによって旅の安全を願っているものです。

山陽道について
山陽道は大和と筑紫とをつなぐ重要官路としての大路であるし、沿岸航路は古代にもいわば”海の廊下”として交通の要路であった。万葉の歌によると陸路よりも海路のほうがより多く利用されたようである。松浦船・筑紫船・熊野船・伊豆手船など各種の船の往還が見られたろう。それは筑紫をつなぐばかりでなく大陸をもつなぐものといってよい。筑紫派遣の官人・防人らはもちろん、遣唐使・遣新羅使人らの往還があった。ことに天平8年(736年)の遣新羅使人らの一行は西の方周防灘にかけて島・浦・湊、岬と抒情のあとをのこしている。
こんにちのような観光瀬戸内海といった気分とはまったく異って、来る日も来る日も潮と波の不安のなかにおかれた命をかけた船路の連続である。延喜式によれば大和と筑紫のあいだは「海路卅日」とあるが、それも天気次第のことで、さらに多くの日数を要したのであろう。
山陽沿海の歌の大部分が定住者の歌ではなく、中央派遣の人々の歌であることは注目される。当時の歴史社会的な条件を背負った人々が内海の風土におかれての抒情である。その上、ひと月にもおよぶ船旅であることを思うとき、かれらの旅愁・望郷・妻恋の心情の姿勢も理解されてくるのだ。
歌・題詞・左註に出る地名を延べて数えて岡山県(備前・備中)に約15、広島県(備後・安芸)に約20、山口県(周防・長門)に約20。岡山県の牛窓から周防の海にかけて沿海各地に万葉の故地を数えることができる。失われてゆく風土のかげにも、なお古代の抒情はひそんでいる。
~『万葉の旅・下』犬養孝著/平凡社から引用
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