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巻第15(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第15-3634~3637

訓読

3634
筑紫道(つくしぢ)の可太(かだ)の大島(おほしま)しましくも見ねば恋しき妹(いも)を置きて来(き)ぬ
3635
妹(いも)が家路(いへぢ)近くありせば見れど飽かぬ麻里布(まりふ)の浦を見せましものを
3636
家人(いへびと)は帰り早(はや)来(こ)と伊波比島(いはひしま)斎(いは)ひ待つらむ旅行く我(わ)れを
3637
草枕(くさまくら)旅行く人を伊波比島(いはひしま)幾代(いくよ)経(ふ)るまで斎(いは)ひ来にけむ

意味

〈3634〉
 筑紫へ至る道にある可太の大島、その島ではないが、ほんのしばらくの間も見ずにはいられない恋しい妻を残して来てしまった。
〈3635〉
 彼女の家への道がもし近ければ、見ても見飽きることのない麻里布の浦を見せてやりたいものを。
〈3636〉
 家にいる妻は、早く帰ってきてねと、伊波比島の名のように、神にお祈りしつつ待っていることだろう、旅を続けているこの私を。
〈3637〉
 旅人の無事を守り続ける、この伊波比島は、幾代にわたって旅人の無事を守り続けてきたのだろう。

鑑賞

 遣新羅使人の歌。前に続き、周防国(山口県東南部)玖珂郡(くがのこおり)麻里布(まりふ)の浦を行くときに作った歌8首のうちの後半4首。「麻里布の浦」は、山口県岩国市または田布施町付近の海。岩国市内に麻里布という地名がありますが、新しい地名なので、ここの「麻里布の浦」とは決められません。

 
3634の「筑紫道」は、筑紫へ向かう道。「可太の大島」は、山口県大島郡の周防大島(屋代島)。瀬戸内海の島の中で淡路島、小豆島に次いで大きな島で、国生みの神話にも出てきます。ここは、前歌の修辞上の名「安波島」を、実名をもって表したもの。上2句は大島の「島」の同音で「しましく」を導く序詞。「しましくも」は、ほんのしばらくの間も。「妹を置きて来ぬ」の「ぬ」は完了の助動詞で、そんな愛しい妻をあとに残して来てしまった。

 
3635の「妹が家路」は、妻の家へ向かう道。「近くありせば」は、もし近くにあったならば。「見せましものを」は、見せてあげたいものなのだがなあ。「せば~まし」は、反実仮想(もし・・・だったら~だろうに)。現実にはあまりに遠く離れているという絶望的な事実が、この「せば〜まし」という構文によって逆説的に強調されています。妻にも見せたいと歌っている麻里布の浦は、それほどに彼らが興味をもった見事な景色だったと見え、我々読者の想像をかき立てられます。

 
3636の「家人」は、家に残してきた妻。「帰り早来と」は、早く無事に帰ってきてほしいと。「伊波比島」は、上関町の祝島、あるいは時系列に見て大島の鳴門にさしかかる前の大島の一部を指したものとも言われ、ここでは「斎ひ」の枕詞。「斎ふ」は、心身を清めて神に祈ることで、「伊波比島」という地名から、家族の祈りの姿を幻視しています。「待つらむ」の「らむ」は現在推量で、待っていることだろう。「旅行く我れを」は、旅路にある私のことを。

 
3637の「草枕」は「旅」の枕詞。「幾代経るまで」は、一体どれほど長い年月が経つまで(ずっと)。「斎ひ来にけむ」の「斎ひ」は、3636の「斎ひ」とは異なり、神が主語で加護を垂れる意。「けむ」は、過去推量。長い年月、数えきれないほどの旅人を守ってきた島であろうが、その一人に自分たちも加えられるはずだ、との気持が込められています。祝島の名に、苦難の船旅を続ける彼らは大きな心の安らぎを得たことでしょう。

 以上4首は、3634~3637が望郷歌で、3638の土地褒め歌で結んでいます。遣新羅使人たちの歌には多くの地名が出てきますが、遣新羅使人に限らず、旅人は行く先々の地名を口にし、歌に詠み込むことによって、知らない土地に挨拶をします。そして、その土地を讃えることによって、土地の神の加護受け、旅の前途の安全を願うのです。筑紫道はまだ遠く、大陸はさらに彼方の途上にあります。
 


遣新羅使人の歌について

窪田空穂の評論から――

 この一行は、その事の準備された時から発船までの間にすでに時の狂いがあったが、発船して対馬国竹敷の浦に着くまでの内海の航路でも、時を空費しなければならなかった。それは一に天候が定まらず、航路の見とおしのつかなかったためである。作歌数の多いのはそのためである。

 歌そのものについて見ると、作歌はほとんどすべて陸上においてしていて、海上でのものは例外の観がある。これは当時の風として、夜は可能な限り陸上に宿ったからであり、それよりも大きい理由は、天候の見定めのつくまでを滞在していたからである。

 歌の内容をなしているものは、すべて旅愁であり、旅愁は一に、京の妻を恋うるもので、それ以外にわたったものはきわめて少数である。その少数も、一行中の代表的な責任者が、たまたま使命に触れての感をいっているものと、他の人の初見の土地の風光に対しての感を陳べているものであって、それ以外にわたってのものは一首もない。もっとも、随員の一人雪連宅満の壱岐で病没したのに対しての挽歌の一連があるが、これは特別のものとする。

 一行がなぜそのように一様に、京の妻を恋うる歌を詠んだかについては、推量しやすい理由がある。それは上にいったがように、天候のため滞在する期間が長くなると、自然の成行きとして小酒宴の催されることがきまりのごとくなったと見える。酒宴には歌が無くてはならず、その歌はまた会衆がひとしく興味を感じうるものでなくてはならなかった。したがってその作歌は、勢い相聞歌となったのである。酒宴のことは記してはないが、作歌から見て、それを作った場合が推量される。ついでとしていうと、一行は周防国佐婆の海上で測らずも逆風に逢い、一昼夜を漂流しているのであるが、信仰に触れての歌がじつに少ない。官人という中でも、外国に使臣として遣わされる層に、信仰心が稀薄であったかにみえることも注意される。

 この歌群の集録者は、一行中の何びとかであったのだが、その誰であったかは不明である。一人の歌好きの人であったことは、往路の歌は、対馬の竹敷の浦までで打ち切られており、帰路の歌は播磨灘まで来て初めて見えることからも推量される。集録者であった一人の人が、何らかの事情で中止すると、代わる者がなかったのである。集録者は、副使大伴三中ではないかと擬せられている。 

 この歌群は、いったがごとく主として宴歌を集録したもので、それをしたのは、歌好きの心より、良いと感じた歌の忘却されることを惜しんでのことであって、他の意よりのことではなかったろう。しかしその結果から見ると、一団の人が一定の航路上にあっての作歌で、時の移るとともに所も変わり、その所どころで作った歌であるために、おのずからその間に連絡がついて、一人の人の長期にわたっての紀行文と異ならないものとなっている。否、むしろ多彩な紀行文とさえなっている。歌そのものから見ると、無論一首一首独立したものであるが、時と所の推移はそれを一大連作と見させるものとなって、結局、特殊な紀行文学をなしているのである。それがこの一大歌群の一つの特色である。

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古典に親しむ

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