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巻第15(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第15-3638~3643

訓読

3638
これやこの名に負(お)ふ鳴門(なると)のうづ潮(しほ)に玉藻(たまも)刈るとふ海人娘子(あまをとめ)ども
3639
波の上に浮寝(うきね)せし宵(よひ)あど思(も)へか心悲しく夢(いめ)に見えつる
3640
都辺(みやこへ)に行かむ船もが刈(か)り薦(こも)の乱れて思ふ言(こと)告(つ)げやらむ
3641
暁(あかとき)の家恋しきに浦廻(うらみ)より楫(かぢ)の音(おと)するは海人娘子(あまをとめ)かも
3642
沖辺(おきへ)より潮(しほ)満ち来(く)らし可良(から)の浦にあさりする鶴(たづ)鳴きて騒(さは)きぬ
3643
沖辺(おきへ)より船人(ふなびと)上(のぼ)る呼び寄せていざ告げ遣(や)らむ旅の宿(やど)りを

意味

〈3638〉
 これがあの有名な鳴門のうず潮と、玉藻を刈っているという海人娘子たちなのだな。
〈3639〉
 波の上で浮寝をした夜、何と思って、妻がうらがなしくも夢に出てきたのだろうか。
〈3640〉
 都の方向に向かう船があったらなあ。そしたら、刈り取った薦のように乱れたこの思いを妻に知らせてやるものを。
〈3641〉
 明け方前の、故郷の家が恋しくてならぬとき、浦の辺りから梶の音が聞こえてきた。あれは海人娘子たちだろうか。
〈3642〉
 沖の方から潮が満ちてきたらしい。可良の浦で餌をあさっている鶴が、さかんに鳴き騒いでいる。
〈3643〉
 沖の彼方を都に向かってのぼって行く船がある。その船人を呼び寄せて、妻に言付けをしたい。この旅の宿りのわびしさを。

鑑賞

 遣新羅使人の歌で、3638・3639は、大島の鳴門を過ぎて二晩経った後に回想して作った歌。「大島の鳴門」は、本土側の山口県柳井市大畠と周防大島(屋代島)の間にある大畠の瀬戸のことで、阿波の鳴門とともに渦潮で名高い海峡。前の歌群の麻里布の浦からおよそ30km南の位置にあります。3638は、田辺秋庭(たなべのあきには:伝未詳)の作とある歌。「これやこの」は、話に聞いて知っていたものを実際に見たときの感動の表現。「名に負ふ」は、有名な、名に背かないの意。「玉藻」の「玉」は美称で、若布などのこと。大和では決して見ることのできない潮の激しい流れと、それをものともせず巧みに小舟を操って玉藻を刈る娘子たちの景に興じています。

 
3639は無記名歌。「あど思へか」の「あど」は、どのように、「か」は疑問。「見えつる」の「つる」は上の「か」の係り結びで、完了の助動詞の連体形。この時代、誰かの夢を見るのは、その人が自分のことを思っているからと考えられていて、ここは切なくなるので思い出したくないのにどうして夢に現れるのかとなじる形になっていますが、むろん逆接であり、内心では妻が夢に見えてくれたことを喜んでいます。

 一行は、麻里布の浦を出て沿岸伝いに南下し、大島の鳴門を通り過ぎて、熊毛(くまげ)の浦へと向かいました。もとの熊毛郡は今の熊毛郡のほか、光市と柳井市の一部を含んで山口県の東南部に当たり、郡の南端は室津半島(熊毛半島)となって、その先に長島・祝島などを点在させています。沿岸ぞいの上り下りの船は必ず通るところでした。しかし、「熊毛の浦」は、どこの浦をさすのか不明で、半島中央部の小郡(おぐに)、あるいは半島先端の室津・長島(上関町)、光市の室積かといわれます。

 3640~3643は、熊毛(くまげ)の浦に停泊した夜に作った歌。
3640は、羽栗(はぐり)の作とある歌。羽栗は、山城国乙訓郡を本拠地とした和邇(わに)系の氏であり、羽栗臣吉麻呂が、阿倍仲麻呂の従者として入唐し、唐の女を娶って翼(よく)と翔(しょう)の二男をもうけ、天平6年に帰朝したことが知られます。彼が、天平8年のこの時の遣新羅使に加わったとも考えられますが、あるいは息子の羽栗翼だったかもしれません。翼は、宝亀8年(777年)にも遣唐使として入唐しています。「行かぬ船もが」の「もが」は、願望。「刈り薦の」は「乱る」の枕詞。「言告げやらむ」は、言葉として告げてやりたい。

 
3641の「暁」は、夜明け前、未明。「浦廻」は、海岸が湾曲して入り組んだところ。「楫」は、舟を漕ぐ道具の総称。「かも」は、疑問の助詞。「暁」に家に残した妻を思い出しているのは、男が女の許を立ち去る時刻であり、それゆえ、妻への思いが増す時間だったのでしょう。家妻に対しては土地の女を、土地の女に対しては家妻を持ち出しては旅愁にむせぶのは、万葉の羇旅歌の手法の一つとされます。3642の「満ち来らし」の「らし」は、根拠に基づく推定。「可良の浦」は、未詳。「あさり」は、魚貝や海藻をとること。3643の「船人上る」は、一行とは反対方向へ向かっていく船。それを、京へ上る船だと見て歌っています。
 


『万葉集』に詠まれた「官船」

 上代(飛鳥・奈良時代)における「官船」は、遣唐使や遣新羅使といった外交使節、あるいは防人の輸送など、国家の公務に用いられた大型構造船を指します。民間の漁船や沿岸航行用の和舟と区別され、『万葉集』などの文学・史料において特殊な美意識や国家権力、旅愁の象徴として描かれています。

  • 官船の構造と特徴
    官船である大船(おおぶね)は、中国や朝鮮半島の造船技術を取り入れた構造船(准構造船)で、複数の帆柱(マスト)や大人数の漕ぎ手(水手・かこ)を備えた大型船です。国家の威信を示すため、船体や櫂(かい)には朱色の丹(に)が塗られていました。「赤塗りの船」は遠方からも識別できる上代官船の顕著な視覚的特色です。
  • 『万葉集』に見る「官船」の象徴性
    『万葉集』巻第15を中心に収められている天平8年(736年)の「遣新羅使人」の歌群などでは、国家の命(大君の命)を帯びて旅立つ官船が情念の舞台となっています。公的な任務を帯びた厳格な場として描かれており、また、旅路の厳しさの一方で、 山々の紅葉の中を、朱色に彩られた官船が漕ぎ進む色彩鮮やかな光景や、官船ならではの華やかさや威容が景物として詠み込まれています。
  • 歴史的背景と造船拠点
    官船建造および発着には、特定の港湾・造船所が指定されていました。安芸国長門島(現在の広島県倉橋島など)や周防国(山口県)をはじめとする瀬戸内沿岸は、良質な木材と造船技術が集積する官船製造の重要拠点でした。また、難波津(大阪)が発着港とされ、瀬戸内海沿岸の「舶泊(ふなはて)」を経由し、博多津や対馬を経て海外へと航行しました。

 上代の官船は、国家の威光を背負う象徴であると同時に、万葉歌人たちにとっては「愛する者との隔絶」や「命懸けの異国訪問」という葛藤を生み出す根源的な存在でもありました。

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