| 訓読 |
3656
秋萩(あきはぎ)ににほへる我(わ)が裳(も)濡(ぬ)れぬとも君が御船(みふね)の綱(つな)し取りてば
3657
年(とし)にありて一夜(ひとよ)妹(いも)に逢ふ彦星(ひこほし)も我(わ)れにまさりて思ふらめやも
3658
夕月夜(ゆふづくよ)影立ち寄り合ひ天(あま)の川(がは)漕ぐ舟人(ふなびと)を見るが羨(とも)しさ
| 意味 |
〈3656〉
秋萩に美しく染まった私の裳が濡れようとも、川を渡って来られたあなた様(牽牛)の御船の綱を手に取って岸に繋ぐことができたら。
〈3657〉
一年にただ一夜だけ妻に逢う彦星も、この私以上にせつない思いをしているとは思えない。
〈3658〉
夕月夜に、彦星と織女の影がしだいに寄り合い、天の川を舟を漕いで渡っていく彦星を見ると羨ましくなる。
| 鑑賞 |
遣新羅使人の歌。題詞に「七夕に天漢(あまのがは)を仰ぎ觀て各(おのおの)思ひを陳(の)べて作る歌三首」とあり、筑紫の館での作とされます。「天漢」は天の川のことで、中国の漢水(長江中流部の支流)に天空の銀河を見立てた呼称。3656は、大使の阿倍継麻呂(あべのつぐまろ)の歌で、彦星を待ち侘びる織女の立場になって詠んでいます。「秋萩」は、萩の花を意味する慣用語。「にほへる」は、美しく染まった。「濡れぬとも」は、たとえ濡れようとも。「綱し」の「し」は、強意。「取りてば」は、取ることができて。嬉しい心情を含む余韻表現です。この純粋に七夕を詠んだ大使の歌のありようについて、伊藤博は次のように述べています。「みずからは無縁と見せかけつつ、部下の本心が吐露されることを許容する姿と見得るのではあるまいか。・・・以下に部下たちの郷愁の歌がむしろ続くことを期待するがゆえに、みずからの歌に七夕歌の純粋性を凝らしたのではなかろうか。旅愁のための題材を部下たちに提供するためにみずからの歌をそれとなしに奏でる意図は、以下に出る大使の歌のすべて(3668・3700・3706・3708)に、より顕著に認めることができる」。そして、「寡黙ではあるものの、思いやりの深い、行き届いた人物であったように見受けられる」とも。
3657の「年にありて」は、一年のうちにあっての意で、一年に一度だけというような場合に用いられます。「一夜妹に逢ふ」は、たった一晩だけ、愛しい妻(織女)に逢うことができる。「彦星も」は、あの彦星でさえ。「我れにまさりて」は、私以上に、私に勝って。「思ふらめやも」は、思っているだろうか、いや、そんなはずはない。秋には逢えるといっても、本当のところはいつ逢えるか分からない、一年に一度、七夕の夜には確実に逢える彦星よりも自分の方がもっと苦しい思いをしているという歌で、作者は若い人だったようです。
3658の「夕月夜」は、夕方の月が出ている夜。「影立ち寄り合ひ」は、彦星と織女の影が寄り合う、または夕月の光が現れて近く差してくる所で、の意。「天の川漕ぐ舟人」は、彦星のこと。「見るが羨しさ」は、見ることの羨ましさよ。二星の寄り合うさまを、妻と離れて旅する我が身の孤独に引き比べて嘆いています。

七夕の歌
中国に生まれた「七夕伝説」が、いつごろ日本に伝来したかは不明ですが、上代の人々の心を強くとらえたらしく、『万葉集』に「七夕」と題する歌が133首収められています。それらを挙げると次のようになります。
巻第8
山上憶良 12首(1518~1529)
湯原王 2首(1544~1545)
市原王 1首(1546)
巻第9
間人宿祢 1首(1686)
藤原房前 2首(1764~1756)
巻第10
人麻呂歌集 38首(1996~2033)
作者未詳 60首(2034~2093)
巻第15
柿本人麻呂 1首(3611)
遣新羅使人 3首(3656~3658)
巻第17
大伴家持 1首(3900)
巻第18
大伴家持 3首(4125~4127)
巻第19
大伴家持 1首(4163)
巻第20
大伴家持 8首(4306~4313)
このうち巻第10に収められる「七夕歌」について、『日本古典文学大系』の「各巻の解説」に、次のように書かれています。
―― 歌の制作年代は、明日香・藤原の時代から奈良時代に及ぶものと見られ、風流を楽しむ傾向の歌、繊細な感じの歌、類想、同型の表現、中国文化の影響などが相当量見出される点からして、当代知識階級の一番水準の作が主となっていると思われる。同巻のうちにも、他の巻にも、類想・類歌のしばしば見られるのはその為であろう。――
また、巻第10所収の『柿本人麻呂歌集』による「七夕歌」には、牽牛と織女のほかに、二人の間を取り持つ使者「月人壮士」が登場しており、中国伝来のものとは違う、新たな「七夕」の物語をつくりあげようとしたことが窺えます。
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