| 訓読 |
3665
妹を(いも)思ひ寐(い)の寝(ね)らえぬに暁(あかとき)の朝霧(あさぎり)隠(ごも)り雁(かり)がねぞ鳴く
3666
夕(ゆふ)されば秋風寒し我妹子(わぎもこ)が解洗衣(ときあらひごろも)行きて早(はや)着む
3667
我(わ)が旅は久しくあらしこの我(あ)が着る妹(いも)が衣(ころも)の垢(あか)つく見れば
| 意味 |
〈3665〉
妻を思ってよく寝られないでいると、明け方の朝霧に包まれて雁が鳴いている。
〈3666〉
夕方になると秋風が寒い。いとしい妻が私の着物を脱がせて洗ってくれたものだが、その着物を早く帰って着たいものだ。
〈3667〉
我らの旅はもうずいぶん長くなったようだ。私が着ている妻の下着に垢が付いているのを見ると。
| 鑑賞 |
遣新羅使人の歌。題詞に「海辺にして月を望みて作る歌九首」とあるうちの3首。ただし、これら9首に月の歌はなく、月見の宴は催したものの月は見られなかったのかもしれません。あるいは、「海辺にして月を望む」という仮定のもとに宴を開いて詠んだ、すなわち詠題による作かとも言われます。
3665の「寐の寝らえぬに」は、眠ることができないのに。「朝霧隠り」は、朝霧の中に閉じ込められて、姿が見えなくなっている状態。ここでは次に続く「雁」を修飾しています。「雁がね」は、雁。雁は、秋に来て春に北へ帰る渡り鳥であり、『万葉集』では、手紙を運ぶ鳥や故郷からの使いとしてしばしば登場します。『日本古典文学全集』には、「この歌が詠まれた7月中旬は太陽暦の8月下旬にあたり、都におけるよりも最小限半月早い雁の声に、作者は異郷での秋の到来を実感しているのであろう」と述べられています。
3666の「夕されば」は、夕方になると。「解洗衣」は、古着の縫いをほどいて洗い、ぴんと張って縫い直した衣のこと。「行きて早着む」は、家に帰って行って早く着よう、の意。窪田空穂は、「旅愁ではあるが、一脈の明るさを含んだ、しみじみした歌である。『解洗衣』を恋うるのは、多分身分低い人で、また、秋には帰朝する心をもっての旅であったから、衣の着がえなども多くはなかったことに関係させての実感であったろう。それも『秋風寒し』の関係においていっているので、きわめて自然なものになっている。よい歌である」と述べています。
3667の「久しくあらし」の「あらし」は「あるらし」の約で、強い推量。「着(け)る」は「着る」の古語。「妹が衣」は、妹の衣で、形見として贈られた下着。男女が別れるとき、再会を約してお互いの下着を交換し、逢うまでは脱がないという習いがありました。現代の感覚からすると妙に感じますが、当時の下着に男女の区別はほとんどなく、同じようなものを身に着けていたと考えられています。そのの汚れから、別れてから経た月日の長さを実感しています。もっとも、妻のほうはとっくに着替えたでしょうけど。

遣新羅使の歴史
記録に明らかな遣新羅使は、欽明朝の571年以降に限ると、882年(元慶6年)までの46回を数え、その時期・性格上3期に分けることができる。532年、朝鮮半島南部の加羅(から)諸国の中心勢力である金官(きんかん:南加羅)が、562年に安羅(あんら)が新羅に服属すると、日本の大和朝廷は前代以来の対任那(みまな)政策を継承して、使節による外交折衝を展開し、新羅の「朝貢」を要求し、征討軍を計画するなど強硬策をとった(第1期)。
646年(大化2年)、孝徳朝の政権は新羅を含む東アジアへの等距離外交に転じたが、663年の白村江の戦い(百済の役)によって日本・新羅間の外交は中断した。668年(天智天皇7年)に国交を回復し、頻繁に使節を交換しあった。当時、日本と唐との関係は30年間空白であったので、唐留学生・僧が新羅を通ったほか、新羅への留学生・僧も多く、遣新羅使および新羅使節が、古代国家の完成に向かう日本の政治、制度、文化などに直接与えたの影響はきわめて大きかった(第2期)。
奈良時代に入り、両使節による比較的安定した交流が続いたが、720年代に、新羅北方の渤海(ぼっかい)が日本と国交を結び、新羅も日本の支配層と同様に中華意識を強めるようになると、日本と新羅の国交は冷却状態となった。759年(天平宝字3年)から日本は渤海と提携して新羅征討を企て、遣新羅使も753年(天平勝宝5年)以降しばしば新羅に拒絶された。779年(宝亀10年)、日本の遣唐使派遣のために両国使節が往来したのを最後に実質的な公的交渉は終わった(第3期)。しかしこの間、日本に新羅の文化・文物が多数もたらされたことは正倉院の文書や宝物に証されている。
【PR】
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |