| 訓読 |
3668
大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)と思へれど日(け)長くしあれば恋ひにけるかも
3669
旅にあれど夜(よる)は火(ひ)灯(とも)し居(を)る我(わ)れを闇(やみ)にや妹(いも)が恋ひつつあるらむ
3670
韓亭(からとまり)能許(のこ)の浦波立たぬ日はあれども家(いへ)に恋ひぬ日はなし
3671
ぬばたまの夜(よ)渡る月にあらませば家なる妹(いも)に逢ひて来(こ)ましを
3672
ひさかたの月は照りたり暇(いとま)なく海人(あま)の漁(いざ)りは灯(とも)し合へり見(み)ゆ
3673
風吹けば沖つ白波(しらなみ)畏(かしこ)みと能許(のこ)の亭(とまり)にあまた夜(よ)ぞ寝(ぬ)る
| 意味 |
〈3668〉
帝の命によって遠くへ赴く使者であるとは思うけれど、旅の日々があまりに長いので、ついあの奈良の都が恋しくなってくる。
〈3669〉
苦しい旅の身空にいる私だが、夜は燈火を灯している。妻は闇夜にいて、私のことを恋しがっているだろうか。
〈3670〉
韓亭や能許の浦に波が立たない日はあっても、故郷の家を恋わない日はない。
〈3671〉
私が夜空を渡っていく月であったならば、家にいる妻に逢いに行き、またここに帰ってくるものを。
〈3672〉
月が皎々と照っている。片や、絶え間もなく、漁師たちの漁火が、海の上で灯し合っているのが見える。
〈3673〉
風が吹いていて、沖の白波が恐ろしさに、能許の停泊地で幾夜も過ごしている。
| 鑑賞 |
遣新羅使人の歌で、筑前国志麻郡の韓亭(からとまり)に停泊した時の歌6首。題詞には「船泊てて三日を経たり。時に夜月の光皎皎として流照す。奄(たちま)ち此の華(くわ)に対して旅情悽噎(せいいつ)す、各心緒を陳べ、いささかに裁(つく)れる」とあります。「韓亭」は、福岡市西区宮浦唐泊とされ、一行が1か月近く滞在した筑紫の館から約18kmの地。韓亭の港は、かつては遣新羅使や遣隋使、遣唐使などの航路の中継港として栄えた港であり、「韓」への出発点という意味が込められた、旅人にとって緊張感のある地名です。
3668は、大使の阿倍継麻呂(あべのつぐまろ)の歌。「遠の朝廷」は、京から遠く離れた政庁のことで、本来は大宰府ほか諸国の国庁の総称ですが、ここでは「韓亭」を指す、あるいは遠くの地に派遣された官人の意ともいわれます。「日(け)」は、日の複数。「長くし」の「し」は強意の副助詞。「恋ひにけるかも」の対象は、都で、望郷の思いを抑えかねる部下たちの気持を、公の立場をわきまえることによって強く代弁しようとする姿勢が窺える歌です。伊藤博は、前出の3656やこの歌から察せられる大使の人柄について触れ、遣新羅大使の立場と見識とをさりげなく示しており、かような人柄の主ががこの度の一行を取り仕切ったからこそ、一行の忌憚のない郷愁の歌声を許し、それを一種公式に記録することまでが進められたということを察知できよう、と述べています。
3669は、大判官の壬生使主宇太麻呂(みぶのおみうだまろ)の歌。夜に燈火を灯しているのは、大使や副使に次ぐ重職にあったためとみられ、当時の燈火はぜいたく品でしたから、一般の生活ではほとんどあり得ないことでした。その燈火のもとにあって、家の闇夜の中にいるであろう妻を思いやっている歌です。「闇にや」は暗闇の意とともに心の暗澹たる状態をも示しているもので、伊藤博は、「暗闇に一人途方に暮れている妻の姿を浮かばせるすぐれた表現である」と延べ、窪田空穂は、「些末な事象で、素朴な詠み方をしているが、感を引く歌である」と評しています。
3670の「能許」は、博多湾に浮かび、韓亭のすぐ前にある能古島。「浦波」は、浦に立つ波。その土地に絶えず繰り返されている自然現象を捉えて、それを自身の恋の繁さに対比させる歌は、各地に行なわれていたもので、集中にも少なからずあります。ここは、自然界にさえ休息(凪)があるのに、私の心には一時の凪さえ訪れないという対比によって、募る思いの激しさを強調しています。
3671の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜渡る月」は、夜空を静かに移動していく月。当時の人々にとって、月は地上をあまねく照らし、一晩のうちに大和(奈良)の空へも届く旅人のような存在として見られていました。「ませば~まし」は反実仮想で、もし〜であったならば(実際はそうではないが)という、事実とは異なる仮定を表します。「家なる妹」は、家にいる妹。「逢ひて来ましを」の「を」には、言葉にならない深い溜息が漏れ出ているような余韻があります。月を見上げる作者の視線が、そのまま大和の空へと吸い込まれていくような、空間的な広がりを感じさせる歌です。
3672の「ひさかたの」は「空」の枕詞であるのを、そのまま「空」の意に転じさせたもの。「照りたり」の「たり」は、存続・完了の助動詞「たり」の終止形で、今、現に照っているという、目の前の光景の持続を表現しています。「暇なく」は、絶え間なく。「漁り」は、漁り火の略。「見ゆ」は、自発の動詞で、(自然と)目に入ってくる、見渡せる。この歌について伊藤博は、「上2句と下3句との対比は逆接の関係をなすものと思われ、上下をぶっつけた中に醸される味わいが妙。表現の背後に押しやった心がかえってしっとり伝わってくる」と述べています。
3673の「沖つ波」は、沖の波。「つ」は、上代のみに用いられた古い連体格助詞。「畏みと」は、恐ろしさに。「能許」は、博多湾内の能古島。韓亭と能古島に分宿したのか、あるいは前面に能古島があるので言い換えたのでしょうか。「あまた夜ぞ寝る」の「あまた」は、数多く、たくさんの意。「夜ぞ寝る」は「ぞ+連体形」の係り結び。いよいよ外洋に向かうにあたって、天候の推移を確かめるため幾夜も停泊していたことを示しています。

遣新羅使の歴史
記録に明らかな遣新羅使は、欽明朝の571年以降に限ると、882年(元慶6年)までの46回を数え、その時期・性格上3期に分けることができる。532年、朝鮮半島南部の加羅(から)諸国の中心勢力である金官(きんかん:南加羅)が、562年に安羅(あんら)が新羅に服属すると、日本の大和朝廷は前代以来の対任那(みまな)政策を継承して、使節による外交折衝を展開し、新羅の「朝貢」を要求し、征討軍を計画するなど強硬策をとった(第1期)。
646年(大化2年)、孝徳朝の政権は新羅を含む東アジアへの等距離外交に転じたが、663年の白村江の戦い(百済の役)によって日本・新羅間の外交は中断した。668年(天智天皇7年)に国交を回復し、頻繁に使節を交換しあった。当時、日本と唐との関係は30年間空白であったので、唐留学生・僧が新羅を通ったほか、新羅への留学生・僧も多く、遣新羅使および新羅使節が、古代国家の完成に向かう日本の政治、制度、文化などに直接与えたの影響はきわめて大きかった(第2期)。
奈良時代に入り、両使節による比較的安定した交流が続いたが、720年代に、新羅北方の渤海(ぼっかい)が日本と国交を結び、新羅も日本の支配層と同様に中華意識を強めるようになると、日本と新羅の国交は冷却状態となった。759年(天平宝字3年)から日本は渤海と提携して新羅征討を企て、遣新羅使も753年(天平勝宝5年)以降しばしば新羅に拒絶された。779年(宝亀10年)、日本の遣唐使派遣のために両国使節が往来したのを最後に実質的な公的交渉は終わった(第3期)。しかしこの間、日本に新羅の文化・文物が多数もたらされたことは正倉院の文書や宝物に証されている。
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