| 訓読 |
3697
百船(ももふね)の泊(は)つる対馬(つしま)の浅茅山(あさぢやま)しぐれの雨にもみたひにけり
3698
天離(あまざか)る鄙(ひな)にも月は照れれども妹(いも)ぞ遠くは別れ来(き)にける
3699
秋されば置く露霜(つゆしも)にあへずして都の山は色づきぬらむ
| 意味 |
〈3697〉
多くの船が停泊する津、その対馬の浅茅山は、しぐれの雨で色づいてきた。
〈3698〉
都から遠く離れたこの辺境の地にも、月は皎々と照っているけれども、思えば、家の妻とは遠く離れてやって来たものだ。
〈3699〉
秋になると降りてくる露霜に堪えきれず、都の山々はすっかり色づいてることだろう。
| 鑑賞 |
遣新羅使人の歌。一行は筑紫を出て壱岐に寄り、対馬の浅茅(あさじ)湾に入ったものの、順風が得られず、湾に臨む竹敷(たかしき)に5日間泊まることとなりました。ここの歌は、当地の景色を眺めてそれぞれの辛い思いを述べて作った無記名歌3首です。この時は、6月に難波津を出航してすでに3か月経過しており、あまりに時間がかかり過ぎています。途中で台風に3度も遭ったこと(九州に着いて後も2度)や、疫病による死者が出たことが大きく影響したものとみられます。
3697の「百船の泊つる」の「百船」は、多くの船。「泊つる」は、停泊する。「津」を起こし、「対馬」を導く序詞となっています。「浅茅山」は今の大山嶽(おやまだけ)、あるいは大山嶽に限らず浅茅湾を取り巻く山々か。「しぐれの雨に」は、晩秋から初冬にかけて降ったり止んだりする通り雨(時雨)によって。「もみたひにけり」は、「もみつ(紅葉する)」の継続状態。つまりある所は赤くなり、ある所はまだ黄色いという状態。窪田空穂は、「前途の容易ならぬことを思って、心の緊張していた時の作とて、その緊張が静かにして力ある形となってものと取れる」と述べ、伊藤博は、「諦観にも似る哀感がしんみりと宿されているように思う」と述べています。
3698の「天離る」は「鄙」の枕詞。都から遠く離れた、という意味。「鄙」は、田舎、都から遠い地。ここでは対馬を指します。「月は照れれども」は、月は(都と同じように)照っているけれども。「妹ぞ遠くは別れ来にける」は、愛する妻とは、こんなにも遠く別れてやって来てしまったことだ。強調の「ぞ」+連体形「ける」による係り結びになっています。前歌の「もみつ」に対し、同じく秋の景物の一つである「月」を持ち出し、前歌の内面にある哀感を表立てて歌っているものです。
3699の「秋されば」は、秋になると。「露霜」は、霜のようになった冷たい露で、これも秋の景物の一つ。「あへずして」は、堪えられなくて。「都の山は」は、大和の都を囲む山々(春日山や生駒山など)は。「色づきぬらむ」の「ぬ」は完了の助動詞、「らむ」は現在推量の助動詞で、きっと今ごろ色づいていることだろう。佐佐木信綱は、「淡々たる叙述の中にも、いい知れぬ懐郷の心持が流れている」と評しています。また伊藤博は、「以上の3首は、使人一行の歌の中では秀歌の集団ということができる」と述べています。
遣新羅使たちの歌には、多くの地名が出ていますが、旅人は地名を口にすることによって、その土地に挨拶をしています。しかも、悪く言ってはいけないので、3697のように「多くの船が停泊する津」と言って讃え、土地の神の加護により、前途多難な船旅の安全を願っています。

つま(妻・夫)
ツマとは、本体に対して添えられている物の意である。現代語では、母屋に対してその脇にある建物を「妻屋」といい、刺身に添えられている大根の千切りを「刺身のつま」ということなどに、その意味が受け継がれている。夫婦関係の呼称としては、男性を主体とする場合には、今言うところの「妻」を、女性を主体とする場合には、今言うところの「夫」を指す呼称であった。つまり「配偶者」という言葉が最もよく当てはまる。
類義語であるイモ・セが当事者同士の愛情の上に成り立つ呼称であるのと比べると、ツマは夫婦関係であることが社会的に認知されている男女をいうのが基本である。
『万葉集』の用例では、現代と同じく女性の妻を指すものがやはり多いが、女性から夫を指す例もしばしば見られる。
~『万葉語誌』から引用
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遣新羅使人の歌について
窪田空穂の評論から――
この一行は、その事の準備された時から発船までの間にすでに時の狂いがあったが、発船して対馬国竹敷の浦に着くまでの内海の航路でも、時を空費しなければならなかった。それは一に天候が定まらず、航路の見とおしのつかなかったためである。作歌数の多いのはそのためである。
歌そのものについて見ると、作歌はほとんどすべて陸上においてしていて、海上でのものは例外の観がある。これは当時の風として、夜は可能な限り陸上に宿ったからであり、それよりも大きい理由は、天候の見定めのつくまでを滞在していたからである。
歌の内容をなしているものは、すべて旅愁であり、旅愁は一に、京の妻を恋うるもので、それ以外にわたったものはきわめて少数である。その少数も、一行中の代表的な責任者が、たまたま使命に触れての感をいっているものと、他の人の初見の土地の風光に対しての感を陳べているものであって、それ以外にわたってのものは一首もない。もっとも、随員の一人雪連宅満の壱岐で病没したのに対しての挽歌の一連があるが、これは特別のものとする。
一行がなぜそのように一様に、京の妻を恋うる歌を詠んだかについては、推量しやすい理由がある。それは上にいったがように、天候のため滞在する期間が長くなると、自然の成行きとして小酒宴の催されることがきまりのごとくなったと見える。酒宴には歌が無くてはならず、その歌はまた会衆がひとしく興味を感じうるものでなくてはならなかった。したがってその作歌は、勢い相聞歌となったのである。酒宴のことは記してはないが、作歌から見て、それを作った場合が推量される。ついでとしていうと、一行は周防国佐婆の海上で測らずも逆風に逢い、一昼夜を漂流しているのであるが、信仰に触れての歌がじつに少ない。官人という中でも、外国に使臣として遣わされる層に、信仰心が稀薄であったかにみえることも注意される。
この歌群の集録者は、一行中の何びとかであったのだが、その誰であったかは不明である。一人の歌好きの人であったことは、往路の歌は、対馬の竹敷の浦までで打ち切られており、帰路の歌は播磨灘まで来て初めて見えることからも推量される。集録者であった一人の人が、何らかの事情で中止すると、代わる者がなかったのである。集録者は、副使大伴三中ではないかと擬せられている。
この歌群は、いったがごとく主として宴歌を集録したもので、それをしたのは、歌好きの心より、良いと感じた歌の忘却されることを惜しんでのことであって、他の意よりのことではなかったろう。しかしその結果から見ると、一団の人が一定の航路上にあっての作歌で、時の移るとともに所も変わり、その所どころで作った歌であるために、おのずからその間に連絡がついて、一人の人の長期にわたっての紀行文と異ならないものとなっている。否、むしろ多彩な紀行文とさえなっている。歌そのものから見ると、無論一首一首独立したものであるが、時と所の推移はそれを一大連作と見させるものとなって、結局、特殊な紀行文学をなしているのである。それがこの一大歌群の一つの特色である。
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