| 訓読 |
3718
家島(いへしま)は名にこそありけれ海原(うなはら)を我(あ)が恋ひ来つる妹(いも)もあらなくに
3719
草枕(くさまくら)旅に久しくあらめやと妹(いも)に言ひしを年の経(へ)ぬらく
3720
我妹子(わぎもこ)を行きてはや見む淡路島(あはぢしま)雲居(くもゐ)に見えぬ家(いへ)づくらしも
3721
ぬばたまの夜明かしも船は漕ぎ行かな御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ
3722
大伴(おほとも)の御津(みつ)の泊(とま)りに船 泊(は)てて龍田(たつた)の山をいつか越え行かむ
| 意味 |
〈3718〉
家島という名に心惹かれて、はるかな海原をこえてやってきた。その島に妻がいるはずはないけれど。
〈3719〉
草を枕に旅することも、そんなに長くはあるまいと妻に言って家を出てきたが、もう年を越してしまった。
〈3720〉
早く帰って妻に逢いたい。雲のかかっているあたりに淡路島が見えてきた。家が近づいてきたらしい。
〈3721〉
夜が明けてきたらしいが、船はこのまま漕いで行こう。御津の浜辺の、あの松もわれらを待ち焦がれているだろうから。
〈3722〉
大伴の御津の港に船を着けて、龍田の山を越え、いつ、懐かしい大和に行き着くことができるだろう。
| 鑑賞 |
遣新羅使人の歌。ここからは、一行が、帰路において播磨灘の家島に着いたときに作った歌で、いずれも無記名歌です。3718の「名にこそありけれ」は、ただの名前だけであったのだなあ。「こそ」+過去の助動詞「けり」の已然形による係り結びで、強い詠嘆を表します。「家」という名がついているが、本当の家のような安らぎはない、という否定的な発見が含まれています。「我が恋ひ来つる」は、私が(ずっと)恋い慕いながらやって来た。「妹もあらなくに」は、愛する妻も(ここに)いないのに。「なく」は、打消の助動詞「ず」の名詞形。「に」は、詠歎の助詞。
3719の「草枕」は「旅」の枕詞。「あらめや」の「や」は反語で、あるだろうか、いや、そんなことはない(だろう)と。「妹に言ひしを」は、妻に言ったのに。「を」は逆接の接続助詞。「年の経ぬらく」は、(それなのに)一年が過ぎ去ってしまったことだ。「経ぬらく」は「経ぬる」のク語法で名詞形。「経てしまったということよ」という事態を客観視しつつ、詠嘆する響きを持ちます。
3720の「行きてはや見む」は、行ってすぐに見たいものだ。「雲居」は雲のいる所で、はるか遠くの意。「見えぬ」の「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の連体形で、見えてきた。「家づくらしも」は、家に近づいているらしいなあ。「づく」は「近づく」の「づく」。「らし」は根拠のある推定の助動詞。「も」は詠嘆。淡路島が見えたという客観的な事実が、主観的には家が近づいたという確信に変わる、その喜びの爆発が「家づくらしも」という言葉に凝縮されています。
3721の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜明かしも」は、夜を明かしてでも、一晩中。「漕ぎ行かな」の「な」は、自己の意志や希望を表し、〜したいものだ、〜しようという強い意欲を示します。「御津」は、難波の港。「浜松」は、浜辺に生えている松。「待ち恋ひぬらむ」は、きっと待ち焦がれていることだろう。「ぬ(完了)」+「らむ(現在推量)」。
3722の「大伴の」は、難波を含むやや広範囲の地名で、御津を重くいうために添えたもの。「大伴の御津」と慣用しているので、枕詞に近いものです。「泊り」は、船着き場。「龍田の山」は、西国を旅する人が帰郷の目途にした山で、難波から平城京へ向かう途中に立ちはだかる山越えの難所。「いつか越え行かむ」は、いつ越えて行こうか(いや、一刻も早く越えて行きたい)。「か」+推量の助動詞「む」の連体形による係り結びになっています。龍田山は単なる通過点ではなく、都の入り口を守る神聖な山でもありました。ここを越えればいよいよ大和の地に入るという、旅人にとっての精神的な境界線です。その山を「いつ越えようか」と自問する姿に、旅の終わりの実感がこもっています。秋に帰ってくる約束は果たせませんでしたが、這う這うの体での帰京を目前にし、さすがに安心して心躍るようすが窺えます。
彼らの歌は、難波津を出発して瀬戸内海を抜け、日本海に出て対馬の竹敷に着くまでが大半で、その先、新羅に渡ってからの歌は1首もなく、帰路の歌もここの5首のみです。しかも、いきなり播磨の家島で、ここの5首を重ねて御津に着いたところでこの集は終わっています。季節を連想させる表現がないため、難波に帰還した時期は不明ですが、『続日本紀』には、天平9年正月26日に彼らが入京した記事が載っていることから、年も押し詰まった頃、あるいは年明けだったと見られています。
帰路の歌が極端に少ないのは、記録者(大伴三中?)がいわば私的に編纂したものであり、公的記録としてではなかったこともあるでしょう。あるいは、『続日本紀』に「遣新羅使、新羅国常礼を失して使の旨を受けざることを奏す」と記されているように、いわば門前払いをされてしまったため、歌など詠んでいる気持の余裕などなかったのかもしれません。さらに途中で大使の阿倍継麻呂が亡くなり、副使の大伴三中も病気になるなどの混乱も大きく影響したのでしょう。
なお、一行の帰朝後、日本側では、新羅のあまりの非礼さに怒り、成敗しようとする動きも起こりました。しかし、同じその年に悪疫が都に大流行して高官の多くが死ぬという事態が出来し、新羅成敗は沙汰止みになりました。『続日本紀』の記載には、貴族の死亡者の名が次々と並んでおり、藤原家の四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)も相次いで亡くなっています。天皇は神祇に祈るばかりでなく、大赦を行い、朝廷の執務を停止するほどでした。その直前には大宰府管内で悪疫が流行り、多くの死者が出ていることから、都での大流行の原因となったのは、この時の遣新羅使の一行ではなかったかとみられています。

遣新羅使の足取り
天平8年2月28日
従五位下阿倍朝臣継麻呂を遣新羅大使とする(続日本紀)
4月17日
遣新羅使阿倍朝臣継麻呂らが拝朝する(続日本紀)
6月
遺新羅使人船、難波から出航
・・・・・・
備後国水調郡長井浦に停泊(3612~3614題詞)
安芸国豊田郡風速浦に停泊(3615~3616題詞)
安芸国安芸郡長門島に停泊(3617~3621題詞)
周防国玖河郡麻里布浦を通過(3630~3637題詞)
周防国大島の鳴門を通過(3638~3639題詞)
周防国熊毛郡熊毛浦に停泊(3640~3643題詞)
周防国佐婆海にて漂流し、豊前国下毛郡分間浦に停泊(3644~3651題詞)
7月初旬
筑紫館に到着(3652~3655題詞)
7月7日
筑紫館で七夕を迎える(3656~3658題詞)
・・・・・・
筑前国志麻郡韓亭に停泊(3668~3673題詞)
筑紫国志麻郡引津亭に停泊(3674~3680題詞)
肥前国松浦郡狛島亭に停泊(3681~3687題詞)
壱岐島にて雪連宅満、鬼病により急死(3688~3690題詞)
対馬島浅茅浦に停泊(3697~3699題詞)
9月
対馬島竹敷浦に停泊(3700~3717題詞)
・・・・・・
新羅より帰還し、播磨国飾磨郡家島に至る(3718~3722題詞)
天平9年正月26日
遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大蔵忌寸麻呂ら京に入る。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂、津島に泊りて卒しぬ。副使従六位下大伴宿祢三中、病に染みて京に入ること得ず(続日本紀)
2月15日
遣新羅使奏すらく、新羅国、常の礼を失ひて使の旨を受けずとまをす。是に、五位已上併せて六位已下の官人、惣て四十五人を内裏に召して、意見を陳べしむ(続日本紀)
2月22日
諸司、意見の表を奏す。或は言さく、使を遣してその由を問はしむとまをし、或は兵を発して征伐を加へむとまをす(続日本紀)
3月28日
遣新羅使副使正六位上大伴宿祢三中ら三十人拝朝す(続日本紀)
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