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巻第15(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第15-3759~3762

訓読

3759
たちかへり泣けども我(あ)れは験(しるし)なみ思ひわぶれて寝(ぬ)る夜(よ)しぞ多き
3760
さ寝(ぬ)る夜(よ)は多くあれども物思(ものも)はず安く寝る夜は実(さね)なきものを
3761
世の中の常(つね)の理(ことわり)かくさまになり来(き)にけらしすゑし種(たね)から
3762
我妹子(わぎもこ)に逢坂山(あふさかやま)を越えて来て泣きつつ居(を)れど逢ふよしもなし

意味

〈3759〉
 遡って事の始めを思い、悲しんで泣くけれど、何の甲斐もないので、わびしい思いで寝る夜を重ねている。
〈3760〉
 寝る夜は多くあるけれども、物思わずに安らかに寝る夜は、ほんとうにないことだ。
〈3761〉
 世の中の常の道理として、こんな有様になってきたのだろう、自分で蒔いた種のゆえに。
〈3762〉
 愛しい妻に逢えるという名の逢坂山を越えてきて、恋しさに泣いてばかりいるが、逢える手だてもない。

鑑賞

 中臣宅守が、娘子に返し贈った歌13首のうちの4首。3759の「たちかへり」は、事の始めに立ち返って。「験なみ」は、甲斐がないので。「思ひわぶれて」は、思い悩み、途方に暮れて。「寝る夜しぞ多き」の「し」は、強意の副助詞。「ぞ」は係助詞で「多き」が結びの連体形。何もできない自分に絶望し、ただ眠りに逃げ込むしかない悲痛な日常を指しています。3760の「さ寝る夜」の「さ」は、接頭語。「安く寝る夜は」は、心安らかに、ぐっすりと眠れる夜は。「実なきものを」の「実」は、ほんとうに、決して。

 
3761の「常の道理」は、一般の道理。「かくさまに」は、このような有様に。「なり来にけらし」は、なってしまったのだなあ(なって来たのだなあ)。「けらし」は過去推量で「ける+らし」の約。「すゑし種から」は、蒔いた種がもとで。3762の「我妹子に」は、逢うと続け、それを逢坂の「逢」に転じて「逢坂山」の枕詞としたもの。「逢坂山」は、山城と近江の国境の山で、越前への街道にもつながっています。「逢ふよしもなし」は、逢うための方法も、手がかりも、まったくない。

 なお、宅守の配流は、狭野弟上娘子と通じたことが咎められたものとされていますが、次のような根拠から、全く違った原因だったのではないかとする見方があります。

  1. 詞書に「中臣朝臣宅守娶二蔵部女嬬狭野弟上娘子一之時、勅断二流罪一配二越前国一也。於レ是夫婦相二嘆易レ別難一レ会、各陳二慟情一贈答歌六十三首」とあり、流罪となった時期は示されているが、その原因は示されていない。また、もし二人の結婚が非合法であったなら、「娶」ではなく「姧」の文字が用いられるはず。さらに「夫婦」とあるので、結婚は公に認められていた可能性がある。
  2. もし二人の結婚が非合法であったなら、二人とも流罪に処せられるべきところ、狭野弟上娘子には何らの咎めがあった気配がない。
  3. 3758の宅守の歌で、大宮人による「人なぶり」は「今もかも」とあることから、宅守が都にいた時、すなわち結婚当初から何らかのいざこざがあったようであり、そのことが発端になって宅守が流罪に処された可能性がある。たとえば、宅守が中傷してくる相手を怒って殺傷したとか。
  4. 3761の宅守の歌で、こんな有様になったのは「すゑし種」、すなわち自分が蒔いた種の故に、と言って後悔している。それが娘子との結婚を指すとしたら、相手の娘子に向かってあからさまに言うのは不自然で、ひどく礼を失するものになる。そうではなく、二人が了知している別の事実のことを言っていると見られる。
  5. 天平12年(740年)に行われた大赦に、宅守は含まれなかったが、『続日本紀』には、大赦から除外された犯罪が列挙されており、職権を乱用して私腹を肥やす罪、殺人の罪、貨幣偽造の罪、強盗窃盗の罪、姦通の罪、また身分として、天皇への忠誠を要求される親衛軍の兵士と書かれている。この除外者の中に中臣宅守の名があり、宅守の場合は姦通に当たらないのであれば、勅勘を蒙り、また大赦から除外されるほどの重大な罪であったと考えられる(当時は死刑は廃止されていた)。



中臣宅守は冤罪だったのか?

(『産経新聞』から抜粋引用、一部改変)

 天平11(739)年、狭野茅上娘子を娶って間もなく、奈良の都から越前国味真野に流刑となった中臣宅守。2人は、いわれなき罪によって引き裂かれた悲しみを歌にした。なぜ宅守は流されたのか。その理由は長く明確でなかったが、万葉集研究の第一人者、中西進さんは、「それは冤罪だったのでしょう」と強調する。娘子の「君が行く道のながてを繰(く)り畳(たた)ね焼き亡ぼさむ天(あめ)の火もがも」(3724)の歌は、従来は、流刑地までの道を折り畳んで燃やしてしまえば宅守は行かずにすむ、という情念の歌と解釈されてきた。しかし、中西進さんは、中国の古典「春秋左氏伝」にある「人火を火といい、天火を災という」との一文を引用し、「〝天の火〟とは雷のこと。この歌のキーワードです」と強調する。「天は真実に基づいて公平に悪を罰するという。だから娘子は『無実の宅守を陥れた人間の裁きを排し、天の正しい裁きがほしい』と歌で訴えているのです」

 この歌が、冤罪を示す証拠だった。そう考えると、宅守の歌も、また違った見え方をしてくる。「旅といへば言(こと)にそ易(やす)きすべもなく苦しき旅も殊(こと)に益(ま)さめやも」(3763)(旅と言ってしまえば言葉では簡単だが、どうしようもなく苦しい旅でも旅としか言い表しようがない)。「冤罪であるがゆえに、つらく苦しい旅になるわけです」。万葉集は弱者の声を集めた歌集という一面をもつ。「2人の相聞歌も恋の悲劇というだけでなく、歌を通じて無実の罪を告発しているのです。万葉集の尊さを感じますね」

 それにしても、なぜ宅守は無実の罪を着せられることになったのだろう。中西さんは「宅守の属する中臣一族は、名門であるがゆえに反発する勢力も強かった。そのなかで下級官僚の宅守は、反対勢力に狙われやすい立場にあったのです」と指摘する。後世、宅守が流刑になったのが娘子を娶った直後だったために、その恋愛が許されざるものだったのではないか、という臆測も呼んだ。もちろん2人の恋が禁忌に触れるものだったという証拠はない。むしろ、恋愛がいわれなき罪にこじつけられたものであれば、より一層、この恋の悲劇性が増すではないか。

 宅守は都に残してきた娘子の身を案じて、こんな歌を詠んでいる。「さす竹の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ」(3758)(宮廷の人々は、今でも人をもてあそぶことばかり好んでいるのだろうか)。「宅守の優しさとともに、官僚への強い反発が読み取れます」と中西さん。宅守はやがて許されて都に戻り、復職を果たしたが、天平宝字8(764)年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱にかかわり、再び地位を追われたと伝えられている。宅守の叔父の清麻呂が、この乱で機敏に立ち回り、後に右大臣まで上りつめたのとは対照的だ。乱の後の宅守と娘子の運命について、文献は何も語らない。「やはり宅守は失意のうちに生涯を閉じたのだろうと思いますね」

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