| 訓読 |
3763
旅と言へば言(こと)にぞ易(やす)き術(すべ)もなく苦しき旅も言(こと)にまさめやも
3764
山川(やまがは)を中に隔(へな)りて遠くとも心を近く思ほせ我妹(わぎも)
3765
まそ鏡(かがみ)懸(か)けて偲(しぬ)へと奉(まつ)り出(だ)す形見(かたみ)のものを人に示すな
3766
愛(うるは)しと思ひし思はば下紐(したびも)に結(ゆ)ひつけ持ちてやまず偲(しの)はせ
| 意味 |
〈3763〉
旅と言えば口で言うのはたやすいが、さりとて、どうしようもなく苦しいこの旅は、言葉でその実際以上に言い表しようがあろうか、表わせはしない。
〈3764〉
山や川を隔てて、身は遠く離れてはいるが、心は近くにいると思ってください、わが妻よ。
〈3765〉
まそ鏡を掛けるように、心に懸けてかけて偲んでほしいと贈る形見の品を、他の人には見せないで下さい。
〈3766〉
この形見の品を愛しいと思ってくれるなら、着物の下紐に結びつけて持ち、絶えず私を偲んで下さい。
| 鑑賞 |
中臣宅守が、娘子に返し贈った歌13首のうちの4首。3763の「旅と言へば」は、旅、と言葉にして言ってみれば。「言にぞ易き」は、言葉としてはたやすい。「術もなく」は、どうしようもなく、やるせなく。「苦しき旅も」は、(これほどまでに)苦しいこの旅路が。「言にまさめやも」の「やも」は詠嘆的反語で、言い表せようか、表せない、の意。3764の「山川を中に隔りて」は、多くの山や川が私たちの間に立ちはだかって。「遠くとも」は、身と心とを二元とし、身は遠く離れていようとも。「心を近く」は、せめて心だけは、すぐ近くにあると。「思ほせ」は「思へ」の敬語で、女性に対しての慣用。
窪田空穂は、「こうした場合には、男性には浪漫的な心が起こり、繰り返しこうしたことをいわずにはいられなかったろうが、女性はかえって実際的となり、男性の想像するほどの慰めは与えられなかったろうと思われる」と述べています。また、伊藤博は、「この一首、『中』『遠』『近』を詠み込んでいる。おのずからに生じた技巧であろう。こういう類は、3728における『大道』と『山道』の対比、3732における『昼』と『夜』の対比にも見られる。また、3736における極端な敬語『思ほしめすな』や3762における即興の枕詞『我妹子に』なども、哀しみの反面で宅守にゆとりというものがあったことを示している。宅守が自己凝視のできる人であったこととかかわりがあろう」と述べています。
3765・3766は、娘子に贈る鏡に添えた歌。3765の「まそ鏡」は、物に懸けて用いるところから「懸け」の枕詞としたもの。「懸けて偲へと」は、(心に)懸けて私を思い出してくださいと。鏡を壁などに「懸ける」ことと、思いを「懸ける」ことを掛けています。「奉り出す」は、差し上げる、お贈りする。「形見」は、離れている人を思い出すよすがとなる物。「人に示すな」は、人には見せるな、の意。魂のこもった形見は、人に見せるとその霊力が衰えるという信仰によっています。3766の「愛しと思ひし思はば」の「し」は、強意の副助詞。「結ひつけ持ちて」は、結びつけて、持ち続けて。「やまず偲はせ」の「やまず」は絶えず。「偲はせ」は「偲へ」の敬語、命令形。
この2首について土屋文明は、形見の物が何であるか不明確なままに歌っている点を主たる理由に、感動から遠ざかるばかりの駄作であると評していますが、伊藤博は次のように反論しています。「形見の物は、3765の枕詞『まそ鏡』や3766の『下紐に結ひつけ持ちて』によって、女にとっても命ともいうべき鏡、それも秘して愛用するいとも可憐な『紐鏡』であったことが容易に察せられる。かりに紐鏡ではないにしても、形見の物が第三者ならぬ娘子に対するものであり、しかも歌はその形見の物に添えてやった作なのであるから、それが何であるかは娘子にだけわかればよいことで、第三者に知られなくてもやむを得ないのではなかろうか。その物を贈る相手には明確に何であるかを説明すること自体が間が抜けているともいえよう」

中臣宅守は冤罪だったのか?
(『産経新聞』から抜粋引用、一部改変)
天平11(739)年、狭野茅上娘子を娶って間もなく、奈良の都から越前国味真野に流刑となった中臣宅守。2人は、いわれなき罪によって引き裂かれた悲しみを歌にした。なぜ宅守は流されたのか。その理由は長く明確でなかったが、万葉集研究の第一人者、中西進さんは、「それは冤罪だったのでしょう」と強調する。娘子の「君が行く道のながてを繰(く)り畳(たた)ね焼き亡ぼさむ天(あめ)の火もがも」(3724)の歌は、従来は、流刑地までの道を折り畳んで燃やしてしまえば宅守は行かずにすむ、という情念の歌と解釈されてきた。しかし、中西進さんは、中国の古典「春秋左氏伝」にある「人火を火といい、天火を災という」との一文を引用し、「〝天の火〟とは雷のこと。この歌のキーワードです」と強調する。「天は真実に基づいて公平に悪を罰するという。だから娘子は『無実の宅守を陥れた人間の裁きを排し、天の正しい裁きがほしい』と歌で訴えているのです」
この歌が、冤罪を示す証拠だった。そう考えると、宅守の歌も、また違った見え方をしてくる。「旅といへば言(こと)にそ易(やす)きすべもなく苦しき旅も殊(こと)に益(ま)さめやも」(3763)(旅と言ってしまえば言葉では簡単だが、どうしようもなく苦しい旅でも旅としか言い表しようがない)。「冤罪であるがゆえに、つらく苦しい旅になるわけです」。万葉集は弱者の声を集めた歌集という一面をもつ。「2人の相聞歌も恋の悲劇というだけでなく、歌を通じて無実の罪を告発しているのです。万葉集の尊さを感じますね」
それにしても、なぜ宅守は無実の罪を着せられることになったのだろう。中西さんは「宅守の属する中臣一族は、名門であるがゆえに反発する勢力も強かった。そのなかで下級官僚の宅守は、反対勢力に狙われやすい立場にあったのです」と指摘する。後世、宅守が流刑になったのが娘子を娶った直後だったために、その恋愛が許されざるものだったのではないか、という臆測も呼んだ。もちろん2人の恋が禁忌に触れるものだったという証拠はない。むしろ、恋愛がいわれなき罪にこじつけられたものであれば、より一層、この恋の悲劇性が増すではないか。
宅守は都に残してきた娘子の身を案じて、こんな歌を詠んでいる。「さす竹の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ」(3758)(宮廷の人々は、今でも人をもてあそぶことばかり好んでいるのだろうか)。「宅守の優しさとともに、官僚への強い反発が読み取れます」と中西さん。宅守はやがて許されて都に戻り、復職を果たしたが、天平宝字8(764)年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱にかかわり、再び地位を追われたと伝えられている。宅守の叔父の清麻呂が、この乱で機敏に立ち回り、後に右大臣まで上りつめたのとは対照的だ。乱の後の宅守と娘子の運命について、文献は何も語らない。「やはり宅守は失意のうちに生涯を閉じたのだろうと思いますね」
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