本文へスキップ

巻第15(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第15-3767~3770

訓読

3767
魂(たましひ)は朝夕(あしたゆふへ)にたまふれど我(あ)が胸(むね)痛し恋の繁(しげ)きに
3768
このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音(ね)のみしぞ泣く
3769
ぬばたまの夜(よる)見し君を明くる朝(あした)逢はずまにして今ぞ悔(くや)しき
3770
味真野(あぢまの)に宿(やど)れる君が帰り来(こ)む時の迎へをいつとか待たむ

意味

〈3767〉
 あなたの魂は朝な夕なにこの身にいただいていますが、それでも私の胸は痛んでなりません。あまりに恋心が激しくて。
〈3768〉
 このごろは、あなたのことを思っては、やる方のない恋ばかりし続けて、むせび泣いているばかりです。
〈3769〉
 思えば、夜にお逢いしていたあなただったのに、その明くる朝、逢わずじまいにしてしまったりして、今となっては悔しくてなりません。
〈3770〉
 味真野に滞在していらしゃるあなたが、ここ奈良の都に帰っていらっしゃる日を、いつ頃だとしてお待ちしたらよいでしょう。

鑑賞

 狭野弟上娘子が、宅守の前の13首に返した歌8首のうちの4首。3767は、宅守の3757を意識した歌。「たまふれど」の「たまふ」は、頂戴する。別の解釈として「魂振る」すなわち魂が遊離するのを鎮める、生命力を増強する意とするものもあります。その場合、「私の魂は朝な夕なに鎮まり安らぐようにしていますが」のように解しています。窪田空穂は、「魂を賜うというごとき例の少ない語を用いているのは、二人とも斎宮寮に仕えている身で、そうした語に自然親しみを持っているためであろう」と述べています。「恋の繁きに」は、恋心が激しく、次から次へと湧き起こってくるので。

 
3768の「すべもなき」は、どうしようもなく苦しい。「恋のみしつつ」の「つつ」は反復・継続で、恋い慕うことばかりしていて。「音のみしぞ泣く」は、声をあげて泣くばかりです。「音」は声。人目を憚らず、あるいはこらえきれずに嗚咽を漏らす様子。「ぞ」は強意の係助詞で、結びの「泣く」を強調しています。

 
3769の「ぬばたまの」は、ぬばたま(ヒオウギ)の実が真っ黒なことから「夜」にかかる枕詞。「夜見し君を」は、夜にあった君なのに。「明くる朝」は、(夜が)明けた、その翌朝に。「逢はずまにして」は、逢わないままにしてしまって。「今ぞ悔しき」は、今となっては悔やまれる。「ぞ」は強意の係助詞で、結びの「悔しき(連体形)」を強調しています。この歌は、朝、男の帰る時に娘子は寝たままで、顔も見ずに別れたことをいっており、当時の女としては普通のことだったようですが、離れ離れになった今はそれが悔やまれると言っています。

 
3770の「味真野」は、宅守の配流地で、福井県越前市(旧武生市)。「宿れる君が」は、(仮の住まいに)身を寄せているあなたが。「宿る」は一時的な滞在を指す言葉ですが、流刑という身の上では、いつ終わるとも知れない「仮の生活」の不安定さを象徴しています。「迎へを」は、お迎えすることを。「いつとか待たむ」は、いつと思って待てばよいのか。ここまでの贈答の推移では、娘子が昂奮する時には宅守が落ちつき、反対に、宅守が昂奮すると娘子が落ちついた様子であったのが、ここはさらにまた宅守が落ちつき、娘子が昂奮した状態になっています。時の流れに応じ、二人の感情が大きく起伏しているのが窺えます。



こころ(心)

 現代の私たちにとって、ココロはすでに自明なものとして存在しているのかもしれない。手近な辞書を見ると、ココロとは、人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの、またその働きなどと説明されている。だが、古代のココロには相当に深い奥行きがある。古代のココロを探る場合、類似の概念であるタマ(魂)との関係を、どう把握するかが大きな問題となる。

 魂はそれぞれの個体に宿る生命力の本質とされるものをいう。魂または個体にとって、本来的な他者として存在した。魂は容器としての身体に宿り、時としてそこから遊離あるいは分離することができるとされた。魂が身体から完全に分離すると死を招くことになる。

 一方、ココロはどのようなものとされたのか。魂とは違い、ココロは個体に内在する何ものかであると考えられた。むしろ、外界との関係において初めて知覚されるものがココロだった。「心」に接続する枕詞に「群肝(むらきも)の」「肝(きも)向ふ」がある。これは、どうやら、心臓の鼓動を心の動きとして知覚したところに生まれた枕詞であるらしい。

~『万葉語誌』から引用

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。