| 訓読 |
安積山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我(わ)が思はなくに
| 意味 |
安積山の姿をも映す澄んだ山の泉、その安積山の泉のような浅い思いで私は慕っているのではないのです。
| 鑑賞 |
この歌には次のような言い伝えがあります。
葛城王(かずらきのおおきみ、のちの橘諸兄)が陸奥国に派遣せされたとき、国司の接待の方法があまりにもいい加減だった。王は不快に思って怒りを顔にあらわし、せっかくのご馳走にも手をつけない。その時、かつて采女(うねめ)を務めていた女性がそばに仕えていて、左手に盃を捧げ、右手に水を入れた瓶を持ち、その水瓶で王の膝をたたいてこの歌を詠唱した。それで王はすっかり機嫌がよくなり、終日酒を飲んで楽しく過ごしたという。
つまり、官官接待において、陸奥国の官人の接待があまりに田舎くさかったために、中央官人である葛城王が腹を立て、その窮地を救ったのが、宮廷ふうの雅を会得していた元采女だったというわけです。「采女」は、天皇のそばで日常の雑務に奉仕した女官のことで、地方豪族の子女の中から容姿端麗な者が選ばれました。葛城王の初叙位は和銅3年(710年)、臣籍降下は天平8年(736年)なので、陸奥に下向したのはその間のいずれかの時期ということになります。当時の陸奥は蝦夷の反乱のために軍事体制が敷かれており、養老6年(722年)には、陸奥の民の負担軽減のため、陸奥出身の采女を本国へ帰らせる措置がとられています。
この元采女の動作がどのようなものであったかは判然としませんが、その動作のあとにこの歌を詠んだという一連の行為は、風流を解する王を満足させるに十分な「わざ」だったか、あるいは舞の所作だったのかもしれません。水瓶で王の膝をたたいたというのもかなり大胆な行為で、単なる媚態とも思えませんが、如何。「安積山」は、福島県郡山市北部の山とされます。「影さへ見ゆる」は、影まで映っている。「山の井」は、湧き水によって山中にできた泉。上2句が「浅き」を導く序詞。
この歌は『古今集』の仮名序に、「難波津(なにわづ)の歌」――「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌とともに、「歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ、手習ふ人の初めにもしける」として掲げられており、和歌を習う人が最初に習ったとされる歌です。葛城王に酒を捧げながらこの歌を奉った女性は、宮中の雅を会得しており、即座に和歌を詠むこともできたとはいうものの、いわば田舎出身の女官の作が、歌の「母」として採り上げられていることには驚きます。まさに日本人が「和歌の前に平等」との原理を受け継いできた所以であるといえましょう。
また、特に秀歌とはいえないこの歌が古代において別格の尊敬を受けていた理由について、渡部昇一氏は、「われわれの先祖は、今日とは違った和歌の評価の仕方を持っていた」として、次のように解説しています。「今日では、和歌を評価するとき、主として美的見地からのみ見る。美的感興を起こさせるものであれば、いい和歌である。ところが昔の人には言霊という信仰があるから、いい歌とはその結果がよかったという歌になるのである。文学の評価法が結果論的であるというのはおそらく日本独特の方法といってもよいかもしれないが、それは純粋に文学というよりは、呪術的・宗教的要素を含む文学様式だからであろう」。そして、仮名序は「力をも入れずて天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛(たけ)きもののふの心をも慰むるは歌なり」と記しています。
なお、2008年5月に、聖武天皇の紫香楽宮跡からこの歌と同じ歌が書かれた木簡の一部が見つかったと発表され、話題になりました。木簡は天平16~17年初頭くらいまでのものなので、『万葉集』が編纂された時期よりも早かったことになります。歌を木簡に書いた人は『万葉集』を見ていたのではなく、何かからこの歌を知ったのであり、ある程度流布していたことが窺えます。

和歌の前に平等な日本人
(渡部昇一氏の著書から引用)
古代の日本人たちは、(中略)詩、すなわち和歌の前において平等だと感じていたように思われる。われわれの先祖が歌というものに抱いていた感情はまことに独特なものであって、よその国においてはあまり例がないのではないかと思われる。
たとえば上古の日本の社会組織は、明確な氏族制度であった。天皇と皇子の子孫は「皇別」、建国の神話と関係ある者は「神別」、帰化人の子孫は「蕃別」と区別されたほかに、職能によって氏族構成員以外の者も区別されており、武器を作る者は弓削部、矢作部とか、織物を作るのは服部とか錦織部というふうであった。これは一種のカースト制と言うべきであろう。このカースト制の実体はよくわからないし、現在のインドのように厳しかったかどうかもわからない。しかしカーストはカーストである。ところが、このカーストを超越する点があった。それが和歌なのである。
『万葉集』を考えてみよう。これは全20巻、長歌や短歌などを合わせて4500首ほど含まれている。成立の過程の詳細なところはわかっていないが、だいたい巻ごとに編者があり、その全体をまとめるのに大伴家持が大きな役割を果たしていたであろうと推察される。大伴氏の先祖である天忍日命(アメノオシヒノミコト)は、神話によれば、高魂家より出て天孫降臨のときは靭負部をひきいて前衛の役を務めるという大功があり、古代においては朝臣の首位を占め、最も権力ある貴族であった。
その大伴氏が編集にたずさわっていたとすれば、カースト的偏見がはいっていたとしてもおかしくないはずである。それがそうではないのだ。この中の作者は誰でも知っているように、上は天皇から下は農民、兵士、乞食に至るまではいっており、男女の差別もない。また地域も、東国、北陸、九州の各地方を含んでいるのであって、文字どおり国民的歌集である。
一つの国民が国家的なことに参加できるという制度は、近代の選挙権の拡大という形で現れたと考えるのが普通である。選挙に一般庶民が参加できるようになったのは新しいことであるし、女性が参加できるようになったのはさらに新しい。しかしわが国においては、千数百年前から、和歌の前には万人平等という思想があった。
『万葉集』に現れた歌聖として尊敬を受けている柿本人麻呂にせよ山部赤人にせよ、身分は高くない。特に、柿本人麻呂は、石見国の大柿の股から生まれたという伝説があり、江戸時代の川柳にも「九九人は親の腹から生まれ」(百人一首に人麻呂がはいっていることを指す)などというのがある。これは人麻呂が素性も知れ微賤の出身であることを暗示しているが、この人麻呂は和歌の神様になって崇拝されるようになる。
このように和歌を通じて見れば、日本人の身分に上下はないという感覚は、かすかながら生き残っていて、現在でも新年に皇居で行われる歌会始には誰でも参加できる。 毎年、皇帝が詩の題、つまり「勅題」を出して、誰でもそれに応募でき、作品がよければ皇帝の招待を受けるというような優美な風習は世界中にないであろう。
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