| 訓読 |
3808
住吉(すみのえ)の小集楽(をづめ)に出でてうつつにもおの妻(づま)すらを鏡と見つも
3809
商返(あきかへ)しめすとの御法(みのり)あらばこそ我(あ)が下衣(したごろも)返し給(たま)はめ
3810
味飯(うまいひ)を水に醸(か)みなし我(わ)が待ちし効(かひ)はさね無(な)し直(ただ)にしあらねば
| 意味 |
〈3808〉
妻と二人で住吉の歌垣の集まりに出てみたが、自分の妻ながら、夢ではなくまざまざと、鏡のように光り輝いて見えた。
〈3809〉
契約を反古にしてもかまわないという法令があるのでしたら、私がさしあげた形見の下着をお返し下さるのも分かりますが・・・。
〈3810〉
おいしいご飯を醸(かも)してお酒をつくってお待ちしていましたが、全く甲斐がありません。ご自身が直接おいでにならないので。
| 鑑賞 |
3808の歌には次のような注釈があります。昔、ある田舎者がいた。姓名はわからない。ある時、村の男女が大勢集まって野遊の歌垣を催した。この集まりの中にその田舎者の夫婦がいた。妻の容姿は大勢の中で際立って美しかった。そのことに気づいたこの夫はいっそう妻を愛する気持ちが高まり、この歌を作ってその美貌を讃嘆した。
「住吉」は、大阪市住吉区。「住吉」は平安時代になってスミヨシと訓むようになりましたが、奈良時代以前はスミノエと訓んでいます。「小集楽」の「小」は親しんで呼ぶ接頭語で、「集楽」は橋のたもと。歌垣は橋のたもとで行われることが多かったため、「小集楽に出でて」は、歌垣に参加することを意味します。住吉の歌垣は有名だったようです。歌垣は、もともとは豊作を祈る行事で、春秋の決まった日に男女が集まり、歌舞や飲食に興じた後、性の解放が許されました。昔の日本人は性に関してはかなり奔放で、独身者ばかりではなく、夫婦で歌垣に参加して楽しんでいたようです。「鏡と見つも」は、鏡のように見たことよ。鏡は貴く美しい物の譬喩で、それのようにつくづく見たという意。
田舎者の男の妻は、日ごろ汗にまみれて家業に明け暮れしていたのでしょう。その姿は男にとって、同じく田舎者としての妻でしかありませんでした。ところが、歌垣というので、妻は日ごろの身なりとは打って変わって、お化粧もしてめかせるだけめかして行ったはずです。当時は夫婦別居でしたから、二人は別々に歌垣の場に参加したと思われます。そして、わが妻の別人のような姿に思わず目を奪われた・・・。しかし、その鏡のような美しさは、この男にとってのみの美しさだったかもしれません。傍から見れば突飛で不相応な姿だったかもしれず、それにもかかわらず、男はすっかりのぼせてしまった。だから「田舎者」なのです。とまれ、ここに描かれているのは、あくまで仲睦まじく微笑ましい夫婦像でありましょう。
3809は、左注に「この歌には言い伝えがある」として、次のような説明があります。ある時、帝の寵愛を受けた娘子がいた。姓名はわからない。そのご寵愛が薄らいだのち、前に娘子が差しあげた寄物(形見)の物を返してこられた。そこで、娘子は恨みに思って、ちょっと慰みにこの歌を作って献上した。「商返し」は、商取引を反故にして、商品を返却したり代価を取り返したりすることで、法令で禁じられていたとされます。「めすとの御法」は、~せよという法律。ここでは「返品を許可する公的な決まり」を指します。「我が下衣」は、文字通り下着のこと。この時代、下着を贈ったり貸したりすることは、非常に親密な関係であることを象徴します。なお、「こそ~め(已然形)」の係り結びが使われており、強調とともに反実仮想(もし〜だったら・・だろうに、実際はそうではない)に近いニュアンスが含まれています。
恋人同士で交わされた形見、とりわけ衣のような品は、二人の関係が絶えると相手に送り返したようです。そうした品にはお互いの魂が宿っているので、それをいつまでも手許に留めておくのは許されないとされていたといいます。とはいえ、慇懃に返却に及んだ帝を恨めしく思い、かといって相手が相手なだけに、このような戯れの姿勢で歌を詠んで献上したのでしょう。しかし、戯れであるだけに、余計に毒があると感じられるところです。
3810は、夫を恨む女の歌。左注に「この歌には言い伝えがある」として、次のような説明があります。「昔、一人の娘子がいた。夫と相別れて暮らすことなって、恋い続けながら何年かが過ぎた。ところがその時、夫はさらに他の女を妻にして、本人は逢いに来ず、ただ贈り物だけをよこしてきた。そこで娘子はこの恨みの歌を作って、返事として送ったという」。「相別れて」とあるので、互いに承知して別れた、たとえば夫が官命などによって遠い地に赴き、妻は家に一人残る身になったということが分かります。
「味飯」は、味のよい飯。「水に醸みなし」の「水」は酒で、酒を醸造して。もっとも原始的な酒の製法は「口醸み」とされ、水に漬して柔らかくした米を口でよく噛み、唾液の作用で糖化させ、容器に吐き入れたものを、空気中の酵母によって発酵させていたことから、このように言っています。ただし、この歌が詠まれた奈良時代には、すでに麹を用いた酒造が行われていたことが、播磨風土記や職員令集解造酒司条古記の記事からも知られます。娘子はそうして待酒を作り、一日千秋の思いで夫の帰りを待っていたのです。ところが任期を終えて帰って来た夫は、こともあろうに他の女を妻(現地妻か)にしており、贈り物だけを送って体面をつくろおうとした。「効」は、効果。「さね無し」は、少しもない。「直に」は、直接に。酒は元来、祓い清め祝福して作られるものでしたが、ここではせっかく用意した待酒が無駄となり、人の心の澱(おり)を貯めた酒となってしまったのでした。

歌垣について
歌垣は、もともとは豊作を祈る行事で、春秋の決まった日に男女が山や市(いち)に集まり、歌舞や飲食に興じた後、性の解放、すなわち乱婚が許されました。昔の日本人は性に関してはかなり奔放で、独身者ばかりではなく、夫婦で参加して楽しんでいたようです。歌垣が行われた場所としては、常陸の筑波山や大和の海柘榴市(つばいち)が有名です。東国では嬥歌(かがい)と呼ばれました。
『常陸風土記』にも筑波山の嬥歌会のことが書かれており、それによると、足柄山以東の諸国から男女が集まり、徒歩の者だけでなく騎馬の者もいたとありますから、遠方からも大層な人数が、胸をわくわくさせて集まる一大行事だったことが窺えます。また、土地の諺も載っており、「筑波峰の会に娉(つまどひ)の財(たから)を得ざる者は、児女(むすめ)と為(せ)ず」、つまり「筑波峰の歌垣で、男から妻問いのしるしの財物を得ずに帰ってくるような娘は、娘として扱わない」というのですから驚きます。
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