| 訓読 |
3824
さし鍋(なべ)に湯(ゆ)沸かせ子ども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来(こ)む狐(きつね)に浴(あ)むさむ
3825
食薦(すごも)敷(し)き青菜(あをな)煮(に)て来(こ)む梁(うつばり)に行騰(むかばき)懸(か)けて休むこの君
3826
蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは芋(うも)の葉にあらし
3827
一二(いちに)の目のみにはあらず五六三四(ごろくさむし)さへありけり双六(すごろく)のさえ
| 意味 |
〈3824〉
さし鍋に熱い湯を沸かしてくれ者ども。櫟津の檜橋からこんこん鳴いてやって来るキツネのやつに浴びせてやろう。
〈3825〉
食薦(すごも)を敷いて青菜を煮て持って来なさい。屋敷の棟木に、行騰(むかばき)を解いてひっかけて休んでおられるこの方のもとへ。
〈3826〉
蓮の葉というのは、まあ何とこんな立派な形をしているのか。してみると、この意吉麻呂の家に生えているのは、どうやら芋の葉だな。
〈3827〉
一二の目だけでなく、五、六に加え、三、四の目さえあるのだからな、双六のサイコロには。
| 鑑賞 |
長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌8首とあるうちの前半4首。長忌寸意吉麻呂は、柿本人麻呂や高市黒人と同時代の人で、宮廷に仕えた下級官吏だったらしいものの、生没年未詳。行幸の際の応詔歌、羇旅歌、宴席で物名を詠み込んだ即興歌などを残しており、『万葉集』には、短歌14首が載っています。
3824は、左注に、この一首には言い伝えがあり、あるとき大勢が集まって酒宴を開いた。時刻は夜半となり、折しも狐の声が聞こえた。そこで人々は意吉麻呂をけしかけて言うには、「これらの食器、雑器、狐の声、橋などの物にひっかけて何か歌を作れ」というので、すぐにこの歌を作った、とあります。「さし鍋」は、つぎ口と柄のついた鍋。「櫟津」は地名で、奈良県大和郡山市または天理市のあたり。中に櫃(ひつ)の音が含まれています。「檜橋」は、檜(ひのき)で作った橋。「来む」は、狐の声のコンが隠されています。立派な橋を狐が堂々と渡ってくるとはけしからん、熱湯を沸かしてそいつにぶっかけろ、という主旨です。
3825は「行騰(むかばき)、蔓菁(あおな)、食薦(すごも)、屋樑(うつはり)を詠む」歌。これも与えられた題と見えます。「行騰」は、乗馬のときに腰から下を覆う毛皮。「蔓菁」は、菜の総称。「食薦」は、食卓に料理を置くための敷物。「屋樑」は、家の柱に懸け渡す梁。「休むこの君」は、家屋を建築させる人で、その普請場へ検分のために来た人であるようです。その従者が、普請場に働いている者に命令した形の歌です。
3826は「蓮葉(はちすば)を詠む」歌。「蓮葉」は蓮(はす)の葉のことで、この時代の宴席では、食物を盛る器として用いられました。ここでは宴席に侍る美女のこととして言っています。「かくこそあるもの」は、(目の前にあるように)このように立派なものであるのだなあ。「こそ〜もの」は詠嘆の響きを持ちます。「意吉麻呂が」は、私(作者・意吉麻呂)の。「家なるものは」は、家にあるものは。「芋の葉にあらし」の「芋」は里芋。「あらし」は、あるらし。きっと~だろう。自分の妻をおとしめて言っている言葉です。
3827は「双六(すごろく)の賽(さい)の目を詠む」歌。双六は、万葉人も夢中になった遊びの一つで、白黒それぞれ12個の石を、2つのさいころを投げて出た数に応じて敵方に進めます。もともとはインドが発祥地で、中国を経由して日本に伝わってきました。ところが、『日本書紀』には、持統天皇の時代の689年に双六を禁止したという記述があり、698年にも禁止令が出されていて、その熱狂ぶりは尋常ではなかったようです。「一二の目のみにはあらず」は、(振った賽の目は)1や2の目だけではない。「五六三四さへありけり」は、5、6、3、4(の目)までもがあったのだなあ。「双六のさえ」の「さえ」は、さいころ。
佐佐木信綱は、「目といえば二つと決まっているのに、双六の采は一、二の目どころではなく、一から六まであると、巧みにその数を詠みこんでおる。平凡な物を新たな感覚で眺め、そこに滑稽味を発見している」と述べています。また、通常、数字を数えるときは「一二三四五六」と順序立てますが、意吉麻呂はあえて「一二」「五六」「三四」と順番を崩して配置しています。この不規則な並びは、サイコロがコロコロと転がり、次々に異なる目が出てくる視覚的な躍動感を音律(リズム)で表現したものと考えられます。
ここの歌からは、持統朝のすでにこの頃に、歌の題材になりにくい物を即座に詠み込むことを楽しむ場があったことが分かります。意吉麻呂はこの種の歌の名手として認められていたらしいことが、3824の左注から察せられます。意吉麻呂は、その期待に見事に答えています。なお、3825以下の意吉麻呂の歌には左注がないため、後に類同の歌を追補したものと見られています。

双六に夢中になった万葉人
双六は、はるか上代の昔、万葉人も夢中になった遊びの一つです。双六はもともとはインドが発祥地で、中国を経由して日本に伝わってた遊びです。ところが、『日本書紀』には、持統天皇の時代の689年に双六を禁止したという記述があり、698年にも禁止令が出されていて、その熱狂ぶりは尋常ではなかったようです。
『万葉集』にも、サイコロの目を詠んだ歌が載っています。貴族をはじめとする上流階級の人々の間で流行した双六は、博打(ばくち)の一種でもありました。あの聖武天皇も双六がお好きだったとかで、正倉院には、ご愛用の双六盤が保存されています。しかし、754年に出された「双六禁断の法」では、双六で賭けをすると杖で百叩きの刑に処し財産を没収する、賭け事をした僧侶は100日間苦役に処す、賭け事をしている者を密告すれば賞金をあたえる、などの条項が定められました。よっぽどのことだったと見えます。
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『日本書紀』
日本最古の勅撰歴史書。全30巻。六国史の筆頭で、『古事記』とあわせて「記紀(きき)」という。天武天皇の第3皇子舎人(とねり)親王が、勅を奉じて太安麻侶(おおのやすまろ)らと編纂、養老4年(720年)に完成、朝廷に献じられた記録がみえる。第1・2巻は神代、第3巻以下は神武天皇の代から持統天皇の代の終わり(697年)までを、年紀をたてて編年体に配列してある。その記事内容は、① 天皇の名・享年・治世年数・皇居の所在地を列記した帝紀、② 歴代の諸説話・伝説などの旧辞、③ 諸家の記録、④ 各地に伝えられた物語、⑤ 詔勅、⑥ 壬申の乱の従軍日記などの私的記録、⑦ 寺院縁起、⑧ 朝鮮・中国の史書の類から成っている。『古事記』と関係が深く、『古事記』と同様に天皇中心の中央集権国家の確立にあたっての理論的・精神的な支柱とすることを目的としている。ただし、『古事記』が一つの正説を定めているのに比し、『日本書紀』は諸説を併記するなど史料主義の傾向がある。また、『古事記』が国語表現をでき得る限り表記しようとしているのに対し、歌謡など一部を除いて徹底的な漢文表記となっており、漢籍、類書、仏典を用いた漢文的潤色が著しいものとなっている。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |