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巻第16(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第16-3836・3837

訓読

3836
奈良山(ならやま)の児手柏(このてがしは)の両面(ふたおも)にかにもかくにも侫人(こびひと)の伴(とも)
3837
ひさかたの雨も降らぬか蓮葉(はちすば)に溜(た)まれる水の玉に似(に)たる見む

意味

〈3836〉
 奈良山の児の手柏のように、表と裏の顔を、その場次第で使い分けては、巧みにへつらってばかりいる輩よ。
〈3837〉
 久々に雨でも降ってくれないかな。蓮の葉に溜まった水が、玉のようになるのを見たいから。

鑑賞

 3836は、題詞に「佞人(こびひと)を謗(そし)る歌」とあり、左注に「博士の消奈行文大夫(せなのゆきふみのまえつきみ)が作る」とある歌です。「佞人」は、へつらい人、おべっか使いのこと。「奈良山」は、現在の奈良市北部の丘陵地。「児手柏」はヒノキ科の常緑樹で、直立する掌形の葉の表裏が区別できないところから、二心ある者の譬え。沖縄の方言にも、この木のことを「フタオモテ」というそうです。上2句は「両面」を導く序詞。「かにもかくにも」は、ああにもこうにも、その場次第のことをする。「侫人の伴」の「伴」は、仲間、連中。「侫人」は「へつらひびと」「かだひと」などとも訓まれます。

 作者の消奈行文は渡来人の名族であり、優秀な学者として朝廷の大学寮に仕えた人です。養老5年(721年)に「学業ニ優遊シ師範タルニ堪フル者」の一人として加賞され、神亀4年(727年)に正六位上から従五位下に昇叙。この歌は、中央の官人のなかに媚びへつらいばかりする人がいるのを謗っているものとされますが、一方で、武蔵国出身の行文が都人とうまく意思疎通ができなくてこのような歌を作ったか、あるいは、謗っているのは「佞人」ではなく「倭人」を指しているのではないかとする見方もあります。『西本願寺萬葉集』では「俀人」と表記されており、中国の『隋書』で「俀」の文字を「倭」の別体としていることによります。

 作家の田辺聖子は、この歌について次のように評しています。「いかにもブツブツと一人腹を立ててつぶやくようなリズムがおかしい。いや、それはこちらが思うだけで、本人はおかしいどころではなく、大まじめである。学者の世界にも政治感覚のある人、処世術に長けた人、さまざまあろうが、また学者馬鹿というような、学問以外には無頓着で、無垢な人柄の先生もいるに違いない。そういう人から見ると、フタオモテで、口のうまい人は、唾棄すべき奸佞人(かんねいじん)とみえたであろう。大まじめに腹を立てているところが、何となくユーモラスで、『万葉集』のふところの深いゆえんである」

 3837は、左注に次のような説明がある歌。右兵衛(うひょうえ:禁中の警備や行幸の供奉を掌る役所)に務める人がいた。素性や姓名は分からないが、歌作の芸に秀でていた。ある時、役所内で、酒食を用意して配下の役人たちに振舞った。料理はすべて蓮の葉に盛りつけていて、酒宴が進むうち、歌や舞が盛んに続き、その時、人々から「その蓮の葉に懸けて歌を作れ」と言われて、即座にこの歌を作ったという。「ひさかたの」は、ここでは「雨」の枕詞。「雨も降らぬか」は、雨は降らないのか、降ってくれよの意。「玉に似たる見む」は、玉(宝石)に似ている様子を見たいものだ。

 この歌について、伊藤博は次のように解説しています。――「蓮葉に溜まれる水の玉に似たるを見む」というのが眼目。その景がなかなか美しいものであることは、誰にも経験があろう。しかし、ここは、それだけのことではあるまい。「蓮」に「憐・怜・恋」を想うのが当時の常識であった以上は、第3句の「蓮葉」に、人びとは美女の姿を感じ取ったであろう。ハチスバといえばすぐ「蓮」が想起され、「蓮」が想起されれば、「憐ー怜ー恋」そして美女の姿ということだったのである。そういう連想が起きれば、その蓮葉に「溜まれる水」は、当然、美女の目に溜まった涙ということになる。それが「玉に似たる」というのであるから、それを見たいという次第になる。衆人の拍手喝采はここから起こる。この類のいつも即座に詠じ得たからこそ、この右兵衛のものは「歌作の芸」に多能な者として評判を勝ち取ったわけである。――
 


博士について

 奈良時代の「博士」は、主に官僚育成機関である大学寮で学問を教えた教官や、朝廷に仕える専門技術者を指します。儒学を教える明経博士や、歴史・漢詩を教える文章博士などが存在し、官人の育成を担いました。奈良時代の「博士」の主な種類や役割は以下の通りです。

  • 明経博士(みょうぎょうはかせ)
    大学寮の本科(明経道)の教官として、『論語』や『五経』などの儒学・中国の古典を教えました。
  • 文章博士(もんじょうはかせ)
    紀伝道(のちの文章道)の教官として、歴史や漢詩・文章作成などを教授しました。 神亀5年(728年)に初めて設置され、のちに朝廷の政治や儀式における漢文作成の中心となりました。
  • 陰陽博士
    陰陽寮に置かれ、天文や暦、占術などを教えました。
  • 算博士
    大学寮で算術(数学)を教えました。
  • 医学・暦博士など
    医療や暦、天文などの専門技術を担当しました。

 このように、現在の学術的な学位としての意味合いではなく、朝廷の律令制度を支えるための専門知識や教養を伝授する「専門の官職」として重要な役割を果たしていました。 

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田辺聖子

 1928年3月27日生まれ、大阪府大阪市出身の小説家・随筆家。樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)国文科を卒業した後、会社勤めの傍ら創作活動を始め、58年に『花狩』でデビュー。64年に刊行された『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)』で芥川賞を受賞。その後、大阪弁で男女の機微を描く恋愛小説を次々と発表、評伝小説でも活躍し、87年に俳人・杉田久女の評伝『花衣ぬぐやまつわる…… わが愛の杉田久女』で女流文学賞、93年に俳人・小林一茶が主人公の小説『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞、98年に川柳作家・岸本水府の評伝『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』で泉鏡花文学賞などを受賞した。『源氏物語』の口語訳など、古典文学の翻案にも力を注いだ。95年に紫綬褒章、2008年に文化勲章を受賞。2019年6月6日、91歳で死去した。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。