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巻第16(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第16-3842~3845

訓読

3842
童(わらは)ども草はな刈(か)りそ八穂蓼(やほたで)を穂積(ほづみ)の朝臣(あそ)が腋草(わきくさ)を刈れ
3843
いづくにぞま朱(そほ)掘る岡(をか)薦畳(こもたたみ)平群(へぐり)の朝臣(あそ)が鼻の上を掘れ
3844
ぬばたまの斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ)見るごとに巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し思ほゆるかも
3845
駒(こま)造る土師(はじ)の志婢麻呂(しびまろ)白くあればうべ欲しからむその黒き色を

意味

〈3842〉
 おい、みんな、草なんか刈らなくていいぞ。刈るなら、いっぱい生えているあの穂積のおやじの臭い腋くさを刈れ。
〈3843〉
 どこにあるのか、朱を掘るのによい岡は。ほら、薦畳のような平群の朝臣の鼻の上を掘れ。
〈3844〉
 真っ黒な斐太の大黒顔を見ると、そのたびに巨勢の小黒の顔が思い浮かぶことだ。
〈3845〉
 埴輪の馬づくりの土師の志婢麻呂(しびまろ)は青白いものだから、なるほどその黒色が欲しいのだろうな。

鑑賞

 3842は、平群朝臣(へぐりのあそみ)が穂積朝臣(ほづみのあそみ)をからかった歌。3843は、穂積朝臣が答えた歌。平群朝臣は、天平勝宝5年(753年)従四位上・武蔵守で没した平群朝臣広成、また穂積朝臣は、天平9年(737年)に外従五位下になった穂積朝臣老人かといわれます。3842の「童ども」は、子供たちへの呼びかけ。「草はな刈りそ」の「な~そ」は、禁止。「八穂蓼を」は、多くの穂がある蓼の意から、「穂積」にかかる枕詞。「腋草」は、腋(わき)に生える草、つまり、わき毛。「草」に「臭」を掛けています。作者は、ターゲットである「穂積」という苗字から連想を広げており、穂がたくさんついた蓼を、「穂を積む」という名を持つ男の「腋の草(毛)」に重ね合わせるという、言葉遊びのテクニックが光っています。

 3843の「いづくにぞ」は、どこにあるのか、という問いかけ。「ま朱」は、水銀を含む赤色の鉱物や、それを精製した赤色の顔料のこと。古代では壁画や器、化粧などに使われる貴重なものでした。「薦畳」は、薦で編んだ畳で、畳の重(へ)の意で「平群」にかかる枕詞。この歌の文脈から、非常に鼻が赤かった人物と推測され、それをからかい返しています。「鼻の上を掘れ」とあるのは、彼の鼻が「赤土の採掘場」に見えるほど赤く、大きいことを揶揄しています。宴会の席などで即興的に、あるいは仲間内で披露されたものと考えられ、お互いに笑い合えるような、当時の貴族社会の風通しの良さや、ある種の下俗なエネルギーが感じられます。もっとも、伊藤博は、「赤鼻と腋臭(わきが)との戦い。腋くさは他人に取り沙汰されることはあまりおもしろくない欠陥ではあるまいか。そう思うせいか、このやりとりは、前の2首(3840・3841)ほど、快適ではない」と述べています。

 3844・3845は、色黒を笑った歌とそれに返した歌。左注に、次のような言い伝えがあるとの説明があります。大舎人(おおとねり)の土師宿祢水通(はにしのすくねみみち)、字(あざな)を志婢麻呂という人がいた。時に、同じく大舎人の巨勢朝臣豊人(こせのあそみとよひと)、字を正月麻呂という者と、巨勢斐太朝臣(こせのひだのあそみ)〈名と字は忘れた。島村大夫(しまむらだいぶ)の息子である〉の二人はともにいずれ劣らず顔の色が黒かった。そこで土師宿祢水通がこの歌(3844)を作ってからかったので、巨勢朝臣豊人はこれを聞いて、即座に答える歌(3845)を作ってからかい返した、という。

 3844の「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「斐太の大黒」は、巨勢斐太朝臣のあだ名で、「巨勢の小黒」は、巨勢朝臣豊人のあだ名。前者は色黒で体が大きかったところから飛騨産の大黒馬の意味が込められ、後者は色黒で体が小さかったところから巨勢産の小黒馬の意味が込められているとされます。「大黒」「小黒」というのは、黒毛の馬を呼ぶ通称であり、躰の大きいのが大黒、小さいのが小黒と呼ばれていたといいます。作者の志婢麻呂は、同じ色黒でも、当事者でない人を「大黒」と呼んで表立て、当の相手の巨勢朝臣豊人を「小黒」と呼んでおとしめています。「小黒し」の「し」は、強意の副助詞。「思ほゆるかも」は、(自然と)思い出されてしまうことよ。

 それに対して巨勢朝臣豊人は、3845で「駒造る」の語をもって切り返しています。「駒造る」の「駒」は埴輪の馬のことで、それを造る意味で「土師」にかかる枕詞。「土師」は、埴輪などの土器を作る職人。「白くあれば」は、(色が)白いので。ここでは、志婢麻呂の肌の色が極端に白かったことを指します。「うべ」は、なるほど、いかにも、の意。「欲しからむ」は、欲しいと思うのだろう。作者の巨勢豊人は、こちらを馬に見立てたのなら、お前はその馬を作る立場の土師氏ではないかとやり返し、さらには極端に色白であることをからかったわけです。
 


漢籍の先例

 本来、宮廷の雅を歌うべき和歌で、このような「戯笑歌」を詠むためには、自由な発想や精神が無くてはならず、それには高い知性と教養が必要とされたことの裏返しでもあります。そして、こうした反文芸的ともいえる文芸は、実は漢籍に先例があります。宋の劉義慶の撰による『世説新語』には、名士たちの奇妙な言行が記されており、日本でも盛んに利用された類書『芸文類聚』(初唐欧陽詢撰)には、「嘲戯」の項があって、やはり古今の様々な「嘲戯」の例が挙げられています。また同じく類書『初学記』(初唐徐堅ら撰)には、「醜人」「長人」「短人」といった、人の肉体的特徴を取り上げた項目が並んでいます。家持の歌った「痩」に関して言えば、日本に残存した散逸類書『 琱玉集』(撰者・成立年次未詳。ただし真福寺蔵本に天平19年書写の奥書あり)に、「美人」「醜人」「肥人」などと並んで「痩人」の項があり、漢の高祖を助けた名臣張良が虚弱で馬にも乗れなかった話など四話を載せています。宴会につきものの悪口雑言も、こうした漢籍を根拠に、芸として昇華しえたものとみられています。

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古典に親しむ

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