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巻第16(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第16-3853~3856

訓読

3853
石麻呂(いしまろ)に我(わ)れ物申(ものまを)す夏痩(なつや)せによしといふものぞ鰻(むなぎ)捕(と)り食(め)せ
3854
痩(や)す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻(むなぎ)を捕ると川に流るな
3855
皂莢(さうけふ)に延(は)ひおほとれる屎葛(くそかづら)絶ゆることなく宮仕(みやつか)へせむ
3856
波羅門(ばらもん)の作れる小田(をだ)を食(は)む烏(からす)瞼(まぶた)腫(は)れて幡桙(はたほこ)に居(を)り

意味

〈3853〉
 石麻呂さんにあえて物申しましょう。夏痩せによく効くというウナギを捕ってお食べなさい。
〈3854〉
 (いや待てよ)いくら痩せていても生きてさえいればいいのだから、万が一にも鰻を捕ろうとして川に流されなさんなよ。
〈3855〉
 サイカチの木に這いまつわるヘクソカズラのように、絶えることなく宮仕えしたいものだ。
〈3856〉
 波羅門さまが耕してらっしゃる田の稲を食い荒らしたカラスは、瞼ががふくれあがって旗竿にとまっている。

鑑賞

 3853・3854は、題詞に「痩せる人を嗤笑(わら)へる歌」とある歌。吉田連老(よしだのむらじおゆ)、通称、石麻呂という人がおり、生まれつき体がひどく痩せていて、どれほどたくさん食べても、姿は飢饉のときのようであった。そこで大伴家持がこの歌を詠んでからかった、と左注にあります。石麻呂は、百済から渡来した医師・吉田連宜(よしだのむらじよろし)の息子で、家持とは父の旅人とともに親交があったようです。

 3853の「我れ物申す」は、私から一言申し上げます、ちょっとお話しいたします。親しい間柄でありながら、あえて少し改まった口調にすることで、ユーモラスな雰囲気を醸し出しています。「むなぎ」は、鰻の古名。「捕り食せ」は、捕って召し上がりなさい。「食せ」は「食ふ」の尊敬語(命令形)で、相手への敬意を示しつつも、親しみを込めて勧めています。3854の「痩す痩すも」は、どんなに痩せ細っていても、痩せに痩せてガリガリであっても。「生けらばあらむを」は、生きてさえいれば、それでいいではないか(それだけで十分なのに)。「はたやはた」は、万が一にも。この歌は、前歌で「夏痩せにはウナギがいいから捕って食べなさい」とアドバイスした家持が、「いや待てよ、あいつがあの細い体で川に入ったらどうなる?」と想像を膨らませて重ねて放った、強烈な追い打ちのジョークです。

 史料上で「鰻」が初出となるのが家持のこの歌です。土用の丑の日に鰻を食べるようになったのは、江戸時代の蘭学者・平賀源内の発案によるとされますが、はるか上代のころに、すでに夏痩せには鰻がいいとされていたことが窺えます。もっとも当時は、今のように開いて蒸したり焼いたりする蒲焼ではなく、鰻を丸ごと火にあぶって切り、酒や醤(ひしお)などで味付けしたものを山椒や味噌に付けて食べていたといいます。あまり美味しそうではありません。

 3855・3856は、高宮王(たかみやのおおきみ:伝未詳)が、数種の物を詠んだ歌2首で、題詠であったと見られます。3855の「皂莢」は、マメ科の落葉高木のサイカチで、その実を薬用とします。「延ひおほとれる」の「おほとれる」は、乱れからみつく。「屎葛」は、悪臭を放つ蔓草のヘクソカズラ。以上3句は、葛の蔓の絶えない意で「絶ゆることなく」を導く譬喩式序詞。清浄な「皂莢」と不浄な「屎葛」とを取り合わせて序詞に持ち込んだのが眼目になっており、我が身を「屎葛」に寓していると見られ、いささか自嘲の念が込められているようです。

 3856の「波羅門」は、インド四姓の最高位で、ここでは、天平8年(736年)に中国から渡来したインドの仏教僧で、波羅門僧正とよばれた菩提僊那(ぼだいせんな)を指すとされます。東大寺大仏開眼の際に導師を務め、その功により僧正に任ぜられ、荘田を賜わりました。「小田」の「小」は、美称。「幡桙」は、法事の際に寺の庭に立てる幡(ばん)を支える竿。カラスはもともと瞼が腫れているように見えるのを、仏罰が当たったものと見ています。また、頭音ハの語が多くあり、数種の物を任意に詠む歌の一つの特徴を追っています(3832・3833)。

 なお、和歌は、和語(大和言葉)で歌われることを原則とし、漢語は排除され、『万葉集』においてもその徹底が見られますが、巻第16には、仏教語を中心に漢語を意識的に使った歌が何首かあり、ここの「波羅門」のほかには、「餓鬼(がき)」「檀越(だんをち)」などの語が見られます。
 


漢籍の先例

 本来、宮廷の雅を歌うべき和歌で、このような「戯笑歌」を詠むためには、自由な発想や精神が無くてはならず、それには高い知性と教養が必要とされたことの裏返しでもあります。そして、こうした反文芸的ともいえる文芸は、実は漢籍に先例があります。宋の劉義慶の撰による『世説新語』には、名士たちの奇妙な言行が記されており、日本でも盛んに利用された類書『芸文類聚』(初唐欧陽詢撰)には、「嘲戯」の項があって、やはり古今の様々な「嘲戯」の例が挙げられています。また同じく類書『初学記』(初唐徐堅ら撰)には、「醜人」「長人」「短人」といった、人の肉体的特徴を取り上げた項目が並んでいます。家持の歌った「痩」に関して言えば、日本に残存した散逸類書『 琱玉集』(撰者・成立年次未詳。ただし真福寺蔵本に天平19年書写の奥書あり)に、「美人」「醜人」「肥人」などと並んで「痩人」の項があり、漢の高祖を助けた名臣張良が虚弱で馬にも乗れなかった話など四話を載せています。宴会につきものの悪口雑言も、こうした漢籍を根拠に、芸として昇華しえたものとみられています。

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『万葉集』と仏教の関係

 『万葉集』と仏教との関係では、集中に仏教思想に由来する無常観や経典から学んだ語彙が散見されるものの、仏教そのものを直接的に詠んだ歌は少なく、仏教の影響はむしろ歌の根底に広く浸透していると推測されます。特に奈良時代には仏教文化圏と皇子・皇女文化圏(たとえば、天智天皇の皇女であり仏教経典を多く所蔵していた水主内親王の存在など)が共存しており、『万葉集』の成立にも皇女文化圏の影響や、唐の仏教文化からの知的体系の継承が関連していたと考えられています。ただし、当時の人たちの精神生活の支柱にあったのは、あくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々であったのでしょう。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。