| 訓読 |
3900
織女(たなばた)し舟乗りすらしまそ鏡(かがみ)清き月夜(つくよ)に雲立ちわたる
| 意味 |
〈3900〉
織り姫は舟に乗って漕ぎ出したよう。美しい鏡のように、清い月夜に雲が立ち渡っていく。
| 鑑賞 |
大伴家持の歌。題詞に「天平10年(738年)7月7日の夜に、独り天の川を仰ぎ見ていささかに思いを述べる」とある、家持が21歳のころの歌です。天の川を渡って逢いに行くのはふつう牽牛とされますが、ここでは織女が出かけて行きます。中国の七夕では織女が牽牛を訪問するかたちとなっているため、家持はこれを踏まえたとみられます。若い家持にとって、中国式の方にむしろエキゾティックな風情が感じられたのかもしれません。「織女し」のタナバタはタナバタツメの略、「し」は、強意の副助詞。「まそ鏡」は、鏡を褒めていう語で、「清き」の枕詞。「月夜」は、月そのものをいう場合が多くありますが、ここは月の照っている夜の意。「雲立ちわたる」は、空一面に雲が覆ってきたのを、舟を漕ぐので波が立つと見立てた表現。
なお、日本で牽牛と織女の立場が逆転し、なぜ牽牛が天の川を渡り、織女が待つ身となったかについて、民俗学の立場から次のように説明されています。「かつて日本には、村落に来訪する神の嫁になる処女(おとめ)が、水辺の棚作りの建物の中で神の衣服を織るという習俗があった。この処女を『棚機つ女(たなばたつめ)』といい、そのイメージが織女に重なったため、織女は待つ女になった。また、当時の日本の結婚が「妻問い婚」という形をとっていたためだと考えられている」。
家持がこの歌を詠んだ日、宮中では、聖武天皇が相撲を御覧になった後、文人30人を集めて漢詩を作る七夕宴が催されたことが『続日本紀』に記されています。まだ若い家持はその宴に招かれることもなく、独り家居したのでしょう。この歌は、その宴会を意識して歌を詠んだのでしょうか。あるいは、織女に坂上大嬢、舟の漕ぎ手の牽牛を自身になぞらえ、大嬢への思いを込めたものでしょうか。なお、題詞や左注に現れる「独」の語は、ことのほか家持の歌に多く、18例中の9例に及びます。その中ではここが最も早い用例であり、孤独感の強い家持の本性に根ざすものとして注目されています。

七夕の歌
中国に生まれた「七夕伝説」が、いつごろ日本に伝来したかは不明ですが、上代の人々の心を強くとらえたらしく、『万葉集』に「七夕」と題する歌が133首収められています。それらを挙げると次のようになります。
巻第8
山上憶良 12首(1518~1529)
湯原王 2首(1544~1545)
市原王 1首(1546)
巻第9
間人宿祢 1首(1686)
藤原房前 2首(1764~1756)
巻第10
人麻呂歌集 38首(1996~2033)
作者未詳 60首(2034~2093)
巻第15
柿本人麻呂 1首(3611)
遣新羅使人 3首(3656~3658)
巻第17
大伴家持 1首(3900)
巻第18
大伴家持 3首(4125~4127)
巻第19
大伴家持 1首(4163)
巻第20
大伴家持 8首(4306~4313)
このうち巻第10に収められる「七夕歌」について、『日本古典文学大系』の「各巻の解説」に、次のように書かれています。
―― 歌の制作年代は、明日香・藤原の時代から奈良時代に及ぶものと見られ、風流を楽しむ傾向の歌、繊細な感じの歌、類想、同型の表現、中国文化の影響などが相当量見出される点からして、当代知識階級の一番水準の作が主となっていると思われる。同巻のうちにも、他の巻にも、類想・類歌のしばしば見られるのはその為であろう。――
また、巻第10所収の『柿本人麻呂歌集』による「七夕歌」には、牽牛と織女のほかに、二人の間を取り持つ使者「月人壮士」が登場しており、中国伝来のものとは違う、新たな「七夕」の物語をつくりあげようとしたことが窺えます。
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