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巻第17(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第17-3901~3906

訓読

3901
み冬(ふゆ)継(つ)ぎ春は来たれど梅の花(はな)君にしあらねば招(を)く人もなし
3902
梅の花み山と繁(しみ)にありともやかくのみ君は見れど飽(あ)かにせむ
3903
春雨(はるさめ)に萌(も)えし柳(やなぎ)か梅の花ともに後(おく)れぬ常(つね)の物かも
3904
梅の花(はな)何時(いつ)は折らじと厭(いと)はねど咲きの盛りは惜(を)しきものなり
3905
遊ぶ内(うち)の楽しき庭に梅柳(うめやなぎ)折(を)りかざしてば思ひ無(な)みかも
3906
み園生(そのふ)の百木(ももき)の梅の散る花し天(あめ)に飛び上がり雪と降(ふ)りけむ

意味

〈3901〉
 寒い冬に続いて春がやってきて、待ちに待った梅の花の季節になりましたが、あなた様以外にはお招きする人はいません。
〈3902〉
 梅の花よ、たとえ生い茂る山のように一杯に咲いたとしても、大宰府の時と同じように、あなたがいくら見ても見飽きることはないでしょう。
〈3903〉
 この柳は、春雨を受けて萌え出たのか、あるいは、梅の花が咲き揃うのに後れてはならないようにと萌え出す、いつも通りの柳なのでしょうか。
〈3904〉
 梅の花、この美しい花をいつといって折るのが惜しいわけではないが、やはり花の盛りは、とりわけ折るのが惜しいものだ。
〈3905〉
 遊んでいる楽しい庭で、梅や柳を折って頭にかざして遊んだのちは、何の心残りも訪れないのだろうか。
〈3906〉
 お庭のたくさんの梅の木から風に散った花びらが、空に舞い上がって雪となって降ってきたのでしょう。

鑑賞

 家持の弟、大伴書持(おおとものふみもち)の歌で、天平12年(740年)12月9日、大宰府の「梅花宴の歌」に追和した新しき歌6首です。父の大伴旅人が大宰府の自邸で観梅の宴を催して部下たちと共に梅花の歌を詠んだのが天平2年正月13日ですから、それから10年を経て後に、その風流をゆかしみ、和うる心をもって詠んだ歌です。それぞれ順に、巻第5-815~817および820~822の歌(下掲)に和したものとされますが、亡父追慕の歌でもありましょう。ただし、12月9日は太陽暦の12月31日にあたり、梅を面前にしての作ではなかろうと思われ、どのような契機から追和したものかは分かりません。

 
3901の「み冬継ぎ」の「み」は、接頭語。「継ぎ」は、続いて。「君にし」の「し」は強意の副助詞で、815の作者、大弐紀卿(だいにのきのまつえきみ:大宰府次官だった紀男人)を指しています。「招く」は、815の歌にある「梅を招きつつ」を受けた言葉で、梅が咲くのを擬人化した表現。なお、「春は来たれど」の「春」の原文は「芳流」、「梅の花」の「花」の原文は「芳奈」となっており、いずれも集中唯一の例となっています。梅の芳香とその漂いを示すために敢えて用いたのでしょうか。

 
3902の「み山と」の「み」は、接頭語、「と」は、~のように。「繁に」は、たくさんに。「ありともや」は、あったとして~だろうか。「かくのみ」は、このように、で、大宰府の時の歌と同じように、の意。ここの「君」は、816の作者の小野老(おののおゆ)を指していると見られます。「飽かにせむ」は、飽きることはないだろう。表現が明晰を欠いているため様々に解釈される歌であり、窪田空穂も、「複雑した気分で、扱いにくいものであるところから、勢い詠み方がたどたどしい感のするものとなってしまったのである。詠みにくい、手に余る内容ながら、強いても詠みきろうとした心の見える歌」と述べています。

 
3903の「春雨に」は、春雨によって、春雨に促されて。「萌えし」は、芽が出た。春雨は「梅花の歌」32首中にはない素材で、また、春雨と柳の取り合わせは集中この1首のみ。「常のものかも」の「常のもの」は、普通の若葉の意。「かも」は、疑問の助詞。順を追って強いて和え歌を試みたらしく、3句以下が舌足らずで素直に解しにくいとの評があります。

 
3904の「何時は折らじと厭はねど」は、いつ折っても構わないが。「咲きの盛り」は、満開の時。3905の「遊ぶ内の」は、遊びをしている現在の、の意。「楽しき庭」の「楽し」の語は、酒宴に関連して多く用いられます。「折りかざしてば」の「てば」は、仮定条件。~たならば。「思ひ無みかも」の「無み」は、状態を表す動詞の「無む」の連用形。「かも」は、詠嘆。

 
3906の「み園生」の「み」は、美称、「園生」は、庭。大宰府の旅人の庭園を指しています。「百木」の「百」は、数の多い表現。「散る花し」の「し」は、強意の副助詞。「降りけむ」の「けむ」は、過去推量。旅人の歌が、梅の花が散るさまを「天から雪が降ってくるのだろうか」と見立てた中国的趣向によっているのに対し、書持は、それとは逆で、梅の花びらが天に舞い上がって雪のように降ってきたのでしょう、と応じています。両者の関係は6首の中では最も分かりやすいものになっています。

書持の追和の元となった歌・・・
〈815〉正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽しき終(を)へめ
〈816〉梅の花今咲けるごと散り過ぎず我(わ)が家(へ)の園にありこせぬかも
〈817〉梅の花咲きたる園の青柳(あをやぎ)は縵(かづら)にすべくなりにけらずや
〈820〉梅の花今盛りなり思ふどち挿頭(かざし)にしてな今盛りなり
〈821〉青柳(あをやなぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬともよし
〈822〉わが園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも

 


大宰府で梅花宴がもうけられた理由

 大宰府で旅人が主催した観梅の宴は、当時でも例のないスケールの大きさです。なぜこのような宴をもうけたのでしょう? 梅がほどよく咲いていたから? どうやらそれだけではないようです。

 大宰府は、天皇がいらっしゃる都からはほど遠い北九州にありながら、当時の外交と防衛の最大拠点でした。軍事面では西辺国境や大陸への防衛の要所であり、また、外交面では諸国との交流の玄関口です。その与えられた権限の大きさからも「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれていたほど。

 このもっともインターナショナルな環境のなかでよまれた歌は、じつは、中国の楽府(がふ)詩「梅花落(ばいからく)」に学んだものとおもわれます。「梅花落」は、唐の都・長安(ちょうあん)をはるかに離れて辺境に出征していた兵士たちがうたうふるさとを恋う歌や、都に残され夫や恋人を偲ぶ女たちの歌が基調になっています。

 旅人たちもまた、辺境の地にある悲しみをわかちあい、こころ晴れるまで雅(みやび)の苑(その)に遊ぼうとしたのでしょう。宴をもよおした旅人の、周囲の官人たちへのやさしいこころづかいがありました。

~『図解雑学楽しくわかる万葉集』/ナツメ社から引用

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